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イスラムの教えや考え方を実践するイスラム教徒の3つの特徴

イスラム教の特徴!イスラムの考え方や教えを完全理解

最近ニュースなどでよく「イスラム」というワードを耳にしませんか?テロリストのイメージもあるかもしれませんが、あなたの周りのインドネシア・マレーシア人がイスラム教徒で、よく接する機会がある。それでイスラムを知った方もいるかもしれません。

こう書いている私も日本人のイスラム教徒ですが、よく「何で入ったの?」と聞かれる事が多く、その尋ねる理由を聞いてみると、イスラームにはルールが多く、厳しいイメージがあるといつも言われます。

ですが、私は声を大にして言いたいのですが、イスラムこそ人間に寛容な宗教であると思っています。皆さんがイメージしているのは「イスラム文化」の要素が強く、そういう部分がニュースで話題となってしまう為、あまりイスラムの本質が分からない事が多いでしょう。

ここでは、イスラム教徒の特徴についてご紹介して行きたいと思います。それでは、見て行きましょう!

意外に知らないイスラム教徒たち

皆さんが、イスラムを日常で知るきっかけは、きっとハラール問題ではないでしょうか?ハラールラーメンやハラールすき焼きなど、今では様々な食の場面で「ハラール」を聞く事が多くなりました。ちなみに、ここJapaNEOでもハラールについて詳しく書いた記事があるので、参考に読んでみて下さい。

ハラル・ハラムとは?イスラムのハラールとハラームを徹底解説!

「ハラールビジネス」と言われるくらいに、日本にもイスラム教徒の観光客が増え、そのイスラムの文化に対応しなければならない時代になったとも言えます。ですが、ここでよく勘違いしがちなのですが、「イスラム教徒はみんな同じ」と考えてしまう事です。

どういう事かと言いますと、マレーシア・インドネシア人やサウジアラビア人、エジプト人、トルコ人等々、イスラム教徒と呼ばれる人達は、全員同じように信仰を守っていると考えてしまう事です。

私は、この考え方を以下2点の理由により否定します。

イスラムの信仰心は人それぞれ

1点目は、イスラムの信仰心の形です。個人とアッラー(神)との関係を重視する宗教なので、信仰心は個人によります。つまり、信仰心は人それぞれなのです。信仰心が弱い強いと、本当は他人が口を挟んで良い問題ではないのです。(たまに、そういうイスラム教徒の方はいますけど)

キリスト教も、そうですよね。信仰心の熱い方もいれば、薄い方もいる。そして、その宗教の中でも宗派に分かれてややこしくなってたりしますしね。

また、イスラームは実行する事に重きを置いている宗教でもあります。例えば、ラマダーン(断食)なんかは、ほとんどのムスリム(イスラム教徒)が行うものです。たとえ、そのイスラム教徒が普段お祈りをしていなかったとしても。

こうやってイスラムの中で取り決めがされているのも、アッラー(神)と個人が近くなる為です。なので、アッラーと個人の関わり方が最も重要な宗教とも言えます。どの宗教も、神との関わり合いについては説いてますよね。ただ、ムハンマドは多神教の信仰心だけがあり、結局神への祈りも形だけになってしまった社会を嘆いていた人物でもあります。現代社会も、もしかしたらそうなっているかもしれませんね。そんな社会に疑問を持ち、個人と神のあり方を強くした宗教。それが、イスラムなのです。

イスラム文化による違い

2点目は、国によってイスラムの信仰度が違うという事です。よくテレビで取り上げられるのはサウジアラビアでしょう。実際に、私も大学時代に教授の先生が、これ見よがしにサウジアラビアでのイスラム法学の厳しさを教えていました。講義後、その先生にも抗議しに行ったのですが、イスラムの法の厳しさは、国の政治の在り方や文化に依存します。

トルコやチュニジアなどは、政教分離の政治体制であり、イスラームでは一夫多妻を良しとしていますが(これにも、歴史的な事情があります)、こういう国では一夫一妻が多くなりつつあります。

一方、例に挙げたサウジアラビアは政教一致の国です。アラブの国では普通なのかもしれませんが、イスラム全体としてみると、こういう国は稀です。また、女性の権利がないと見られがちですが、そうでもないと感じています。例えば、サウジの女性は車の運転が出来ない、と問題視されるのですが、大抵のサウジアラビアの女性はお金持ちで、運転手さんがいたりします。私のサウジアラビアの友達も、乳母がいたり、家政婦さんがいたりと、話を聞くだけでかなり裕福に過ごしているのが伝わって来ます。

法律上では女性の権利を認めていくべきでしょうが、そもそもの日本人と同じベースで考えてしまうと、「サウジアラビアでは女性が運転出来ないなんて、可哀そう・・・」と考えてしまいます。

しかし、その背景をよく見てみると意外とサウジアラビアでの生活の方がゆとりがあり、妻はママ友と喋る毎日を楽しんでいる可能性もあります。

こういう信仰上の理由や国によっての違いもあり、「イスラム教徒=みんな同じ」と考えてはいけないのです。

最近のイスラム教徒について

このビデオ。欧米の人達が抱きがちな中東のイメージが、実は違うんだよ。と、ユーモアを交えながらプレゼンテーションしています。私の知るイスラム教徒の人達も、こんな感じのユーモア好きな陽気な人達が多いです。

そうです、ムスリム(イスラム教徒)の人達はよく笑うんです!なぜなら、私たちムスリムにはアッラーがいるから。もう、これが一番大きな要因だと思います。もしかしたら、アラブ人特有の明るさにも要因があるかもしれませんが(笑)

また、よくイスラムの女性が被っているヒジャブ。この布も以前までは黒や茶色と地味なものが多かったのですが、インドネシア・マレーシア、そして上の写真のようなトルコ人女性たちによって「ムスリムファッション」が流行って来ています。

実際に、私ひもくみもヒジャブをおしゃれに巻く方法を記事にしています。

イスラム教徒の方を友達に持つ方はお気付きかもしれませんが、彼らも楽しい事が大好きで、おしゃれも好きなんです!特に信仰心が強い人ほど、陽気で前向き、寛容です。なぜなら、アッラーが私たちを見守ってくれているからです。「神」という概念自体が日本では想像しにくいですが、神が存在するのとしないのとでは、人生にとって全然違うものとなります。

イスラームの布教活動について

布教活動。これが、皆さんは宗教を考える上で嫌悪感を持つ側面だと思います。私の意見としては、よく家に訪問しに来る「エホバの証人」のイメージが強いように思います。

実はイスラムでは、強制を伴った普及活動は認められていません!

宗教に強制はない。実に正道と邪道は明らかにされたのである。

(雌牛章第2章256節)

なので、「イスラム教徒になろうよ!」というような勧誘は認められていません。「なりたければなれば?」というスタンスがイスラムの本来のあり方です。ただし、布教活動が必ずしも禁止されている訳でもありません。

ちゃんとした良い手法でもって布教することをアッラーは命じています。それがコチラ。

英知とよき訓戒をもって、あなたの主の道へといざなえ。 そしてよき手法を用いて彼らと議論するのだ。    
(蜜蜂章第16章125節)

「分からない事や不審な疑問にも、我らは答えるぞ?」こういうスタンスなんです、イスラムは。それだけ、コーランのアッラー(神)による教えが完璧であり、重要なんです。

コーランとは、キリスト教で言う聖書みたいなもの。このコーランをクルアーンと読んでも、構いません。

イスラム教が教える社会や人の結びつき

社会において不正を働いたり公正に振舞っていない人は、完成されたムスリム(イスラム教徒)とは言えません。イスラームは宗教に対する個人的な熱心さ以上に、社会的な務めや責任といった事により多くの重要な規則を設けています。

つまり、どれだけイスラムにおける決まりを守っていたとしても、社会において公正であり、信頼できる人でなければ、完璧なムスリム(イスラム教徒)とは言えないのです。

イスラームは人が周囲に対して気を配り、自分よりも相手の事を優先して考えるように促しています。周囲の人々に対する無関心、他の人に害を与える要因ともなる自己中心的な考え方や物惜しみ、不正に対する看過・鈍感さといったものを禁じています。この自分よりも相手の事を考える。簡単には言えますけど、なかなか出来る事ではありません。イスラム教徒である私でも、「出来ていなかったな。」と反省する事も多いのです。相手の立場に立って物事を考えると、相手の気持ちが分かり、寛容になれます。その寛容さこそ、イスラムでも目指すべき精神なのです。

イスラムの教え:家庭について

イスラムの世界では、早婚を求められます。お付き合いから始まり、その後に結婚を考える日本の恋愛・結婚観と違い過ぎてビックリですよね。そもそも、何故早く結婚するのでしょうか?

またかれがあなたがた自身から、あなたがたのために配偶を創られたのは、かれの印の一つである。あなたがたはかの女らによって安らぎを得るよう(取り計らわれ)、あなたがたの間に愛と情けの念を植え付けられる。本当にその中には、考え深い者への印がある

(ビザンチン章第30章21節)

凄く抽象的に書かれてますね。つまり、クルアーンには結婚と家庭はアッラーが存在する印であると記述されています。これは、イスラムが家庭をいかに重要と考えているかを語るものであり、同時に結婚が人の本質に即したものである事も示唆しています。コーランは家庭が継続していく為に必要な、非常に重要な態度を明示しています。

すなわち愛情、敬意、礼儀、寛容、理解、権利の尊重、高潔、恥の意識、忠実さ、恩義、信頼、正しさ、誠実さ、心からの態度、均衡、穏健さといった態度が推奨され、家庭の崩壊へとつながる暴力、衝突、挑発、寛容の欠如、権利の侵害、不誠実さ、貞節の欠如、恥知らずな態度、裏表のある態度といったものは禁じられています。

意外かもしれませんが、クルアーンでは男性は女性と協調しいていくように命じられています。男女ともに、相手を敬い、お互いに協力して人生を歩んでいかなければならないのです。家庭が安らぎを持って継続して行く為には、誠実さや心からの振る舞いが欠かせません。愛情や寛容さや誠実さが存在しない家庭では、物質的に充足していたとしても、安らぎを得る事がないのです。

預言者ムハンマドは、

「信者のうち信仰が心にあふれている者とは、高い品格を持ち、家庭に対して最も良く振舞う者のことである」

と述べています。

イスラムの教え:親戚や近親者について

家庭への配慮や早婚に続き、この親戚や近親者との繋がりは昔の日本にもあった精神です。この精神が、未だにイスラムでは残っています。ですので、イスラムを信仰している国々の家族間・親戚間はとても良いのが特徴です。

また近親の絆を(尊重しなさい)

(婦人章第4章1節)

近親者に、当然与えるべきものは与えなさい。また貧者や旅人にも。だが粗末に浪費してはならない

(夜の旅章第17章26節)

また、ハディース(預言者ムハンマドの言行録)には、

「目上の人を尊敬せず、目下の人を愛さない者は、私達の仲間ではない」

とありますが、目上の人と言えばまず第一に父母のこと、目下とは子供たちの事を指しています。儒教のような側面も感じますが、イスラムにおいても、目上・目下への敬いについて、はっきりと説かれているのです。

人にとってアッラーへの信仰とイバダート(崇拝行為)の次に大事な務めは、父母に対して敬意と愛情を持ち親密な態度で接する事です。

クルアーンでは、

われは、両親に対して優しくするよう人間に命じた

(砂丘章第46章15節)

と告げられています。子供には、両親に対して行なうべき多くの務めがあります。

  1. 両親の求めに応えること
  2. 両親に安らいだ環境を提供できるように努める事
  3. 禁止されている事でなければできるだけ両親の望みを実現させ、両親のイバダートを助ける事
  4. 両親の為に祈願する事
  5. 両親を尊重する事
  6. 両親を傷つけるような行動や態度は慎むこと
  7. 両親が遺言を遺した場合はそれを実践する事
  8. 死後も両親の親友や彼らが愛した人々との関係を保ち続ける事

などが、両親に対する人としての務めなのです。

両親に反抗する事は大きな罪とされています。預言者ムハンマドは両親に従い、奉仕すれば天国へ行け、反対に両親に反抗し、敬意を示さなければ地獄へ行ってしまうと教えました。父母がそばにいるのに、彼らに対し天国に行く事が出来ないような態度をとる人達に警告を与えたのです。

また

「アッラーのご満悦は母や父の喜びと、アッラーのお怒りは母や父の怒りと結びついているものである」

というハディース(預言者ムハンマドの言行録)は、来世の幸福を獲得する為には親に従わなければならない事を明白に示すものです。

子供達を愛しきちんとしつけをする事も、現世と来世双方の為の備えとなります。両親は子供たちが肉体的にも精神的にも良い形で成長し、人々の役に立つ人間になるように、出来る限りの事をすべきです。その為には、まず自分たちが立派な模範となり、アッラーが禁止されている事を子供達に守らせ、彼らの教育に深く関与し、何が善い事であり何が悪い事であるかを教えていく必要があります。

崇高なるアッラーはクルアーンで、隣人たちに愛情と敬意を持って交わるように命じられています。預言者ムハンマドも、

「天使ガブリエルは私に、隣人達とどのように接すれば良いのか何度も助言してくれました」

とも語っています。また別の場面では、「次のような人は、完成されたムスリムではない」と三度断言するくだりがあり、「それは誰か」と尋ねられた預言者ムハンマドは、

隣人に対して災いをもたらすような人

と答えています。

客に敬意と愛情、親密さを示す事、客をもてなす事も美徳です。預言者ムハンマドは、

「アッラーと来世を信じる者は客をもてなしなさい」

と勧めています。

他のハディースでは、

「アッラーと来世を信じる者は、隣人に迷惑をかけてはいけない」

とも語っています。

イスラムの教え:他人との関りについて

預言者ムハンマドは、

良い信者とは、人と良い関係が結べる人である。他者と分かり合えず、上手く付き合えない人には益はもたらされない

と述べています。この他者と分かり合えていないイスラム教徒も多いですが、本当に良いムスリムは、この他者との共存が素晴らしく出来ています。

預言者ムハンマドは、互いを愛する事は信仰の要求するところであるとし、

「お互いを愛さない者は、完全な信仰を持った事にはならない。あなた方がある事を実践した時、お互いを愛するようになる。ある事というのは、あなた方の間に平安を広める事だ」

と言っています。また別のハディース(預言者ムハンマドの言行録)では、愛情を持って他人と関わる事について次のように語っています。

「ムスリム(イスラム教徒)はお互いを愛し合い、慈しみ合う事によって、あたかも一つの身体のようになる。身体の器官のどこかが不調になれば、それに伴って他の器官も熱を持ち不調となる。」

預言者ムハンマドの歴史にも影響を受けている言葉だと私は感じますが、イスラムではイスラム教徒同士の同胞意識を説く場面が非常に多いのが特徴です。

預言者ムハンマドは、礼拝や断食や施しをよく行うが、言葉や態度で隣人達を傷つけていたある女性について言及し、「その女性は地獄に落ちる」と断言したのです。

他のハディースでも、

「隣人から、あの人は害をもたらさないと信頼されるような人でなければ、天国には入れない」

と説明しています。それほどまでに、イスラームでは周囲の人たちへの自分の印象が影響するのですね。

イスラームはいかなる状況においても、個人や集団の権利を侵す事を禁じています。たとえば、

  1. 私利私欲の為に社会に損害を与える事
  2. 上手く出来ない仕事なのにそれに固執しようとする事
  3. 職権を悪用する事
  4. 賄賂や利子を受け取る事
  5. 闇市を利用する事
  6. 集団もしくは個人の動産・不動産を横領する事
  7. 取引や交易で計略を企てる事
  8. 騙す事
  9. ののしる事
  10. 暴力を振るう事
  11. 心を傷つける事
  12. 中傷したり陰口を叩く事
  13. 人のプライバシーを暴くこと
  14. 不当に迫害する事

などです。ムスリムは協調性を備え、誰からもこの人は他人に迷惑や害悪を及ぼさない人だと思われる人間でなければなりません。預言者ムハンマドは、

「あなた方のうち最も価値がある人とは、周囲の人達がこの人は善い事を行い悪い事は決して行わないと信頼している人の事である。最も価値がない人とは、この人は悪い事を行うのではないかと不信感を抱かれている人である」

と述べられています。

人はたとえ不当な扱いをされたとしても、その人に対し良い振舞いで応じるべきです。優れた徳とは、奪う者に対しても与える事、関係を絶とうとする者とも関わりを維持しようとする事、迫害する者を許す事にあります。クルアーンでは次のように説かれています。

善と悪とは同じではない。(人が悪をしかけても)一層善行で悪を追い払え。そうすれば、互いの間に敵意ある者でも、親しい友のようになる

(イブラーヒーム章第14章34節)

社会的な関係においてイスラムが示している原則に、正義と助け合いの精神があります。クルアーンでは

『むしろ正義と篤信の為に助け合って、信仰を深めなさい』

(食卓章第5章2節)

と記されています。預言者ムハンマドは「次のような人は、真の信仰を持った事にはならない」と三度、断言しています。

「それは誰でしょうか、アッラーの使徒よ」

と人々から尋ねられると、

「隣人が空腹でいる時に、満腹して眠る人である」

と答えています。

ムスリム(イスラム教徒)が互いに責任を負い助け合っている形の一つが、「貸す」という行為です。宗教上お金を貸す事はアッラーをご満悦に至らせる行為として認められています。なぜなら、これは人が必要としている事に応じる事であり、その人の物質的な苦しみを和らげるものであるからです。

したがって預言者ムハンマドは、お金を貸す事をサダカ(施し)よりもお徳のある事としています。アッラーのご満悦を得るために人にお金を貸す事は、アッラーに何かをお貸しするようなものとみなされ、その見返りは何倍にもなって与えられるとクルアーンでは述べられています。

助け合いとは単に必要としている人にお金や物を貸すという行為だけではありません。人が悪い道に入らないように方策を講じる事も、その人を助ける事になります。預言者ムハンマドは、

乱暴者であっても、虐げられる者であっても、あなたの兄弟を助けなさい

と述べています。

これに対して人々から

「アッラーの使徒よ、虐げられた者を助けるのは分かります。乱暴する者を助ける事はどのような事でしょうか」

と尋ねられると、

「彼からその残虐行為を取り除く事が出来れば、それも彼を助ける事になるのです」

と答えています。

参考著書『イスラーム 正しい理解のために

イスラム教徒が考える善意の考え方

イスラムの聖典、クルアーンで言われている事、そのほとんどが日本人は出来ています。年長者を敬えとか。他人に優しく、とかとか。

しかし、根本的に違う考え方が一つあります。それは、日本人はその「人」の為に善意を行います。一方、ムスリム(イスラム教徒)の人達は、究極的には「自分」の為に善意を行います。 こう言うと、ムスリムは自分勝手だと思われるかもしれません。ですが、そうではないのです。

「自分」の為の大前提には、アッラー(神)の為。そういう思想があります。アッラー(神)は、あなたの全てを見ています。たとえば、あなたが万引きをしてしまったとしても。あるいは、道に捨てられた猫にご飯をあげているところも。そういう「あなた」を見て、あなたが天国に行くか地獄に行くか判断するのです。

こんな思想が馬鹿馬鹿しい。そう思う人もいるかもしれません。ですが、私は「人」の為に行う善意の方がどれだけ独りよがりなものであるか。それを、実体験と共に学びました。

日本人の考える善意のはき違え

私は、以前家庭教師をしていました。そこで、私が毎回行く度にお菓子やお茶を提供する家庭に何度か出会いました。そういう家庭は、「優しい」ですよね?それは、「私」の為に、そこの生徒のお母さんが行ってくれた善意でした。

ですが、そういった家庭であればあるほど、その家庭のお母さんの中での「先生」はこうあって欲しいという期待が強かったのを覚えています。全ての家庭とは言いませんが、

「先生、これをウチの娘には言わないで下さい。」

「先生、何故うちの子は成績が悪いのですか?」

教育とは、決して塾に通わせているから、家庭教師をつけたから。だから伸びるものではありません。一番教育に影響力を及ぼすのは、その家庭の親御さんであります。特に、よく密に接する母親です。

お菓子を出してくれた家庭に共通していたのが、母親が全く勉強できないと思っており、子どもの勉強には全くノータッチ。そんな家庭が多かったのです。自分が出来ない事を期待する。そして、その期待の対価としてお金や物をあげる。だからこそ、先生である私に対して色々注文できる。

このように、「教育」そのものが消費物として成り立ってしまった。この事に対する危惧を書いた教育本はたくさんあります。

そして、日本人の「善意」の感覚も、このような感覚に近くはないでしょうか?人は、善意を行った時に、見返りを求めてしまうものです。見返りもなく善意を行える人間というのは、聖人・聖女の領域でしょう。全ての人間が思える考え方ではありません。善意に見返りを求めるのは、当たり前の事なのです。その見返りを「人」に求めると、まるでその人を支配するような感じにもなってしまいます。まさに、共依存の関係もこれにあてはまるでしょう。

一方、ムスリム(イスラム教徒)の人達は、この善意の見返りをアッラー(神)に求めます。

全ての行いはアッラーのために

数年前、私は一人でトルコ、イスタンブールを訪れました。当時、バイヤーとしてのビジネスの成り立ちを知りたくて、衣服産業が並び立つ町に一人で行ってきました。その時に、助けてくれたレバノンのおじさんがいました。

彼は、自分の行き着けの店やビジネス交渉の仕方、そしてお昼までご馳走してくれました。そして私は彼に、

「ありがとう、私の為に。」

と言いました。すると彼は、

「僕は、君の為にやったんじゃないよ。アッラー(神)の為にやったんだ。だから、君が別にお礼を言う事じゃないよ。」

これが、ムスリム(イスラム教徒)としてのあるべき姿です。彼は、決して素晴らしいムスリムとは言えません。お酒もたまに飲むし、クラブにも行った事あります。

しかし、根本的な思想であるアッラーの為に。この考え方があるので、私は彼がムスリムであると胸を張って言えます。

イスラム教徒でも難しい善意の行い

去年の夏に、一人のイギリス人の女の子が私の家にホームステイに来ました。経緯を話すと長くなるのですが、彼女を私は当初知りませんでした。一度も会った事がなく、友達の友達というので、怪我をして日本に滞在する期間が長くなってしまった。そんな辛い事情のある子。そんな認識だったのです。

また、私はよく海外に行った経験があり、そこでホームステイさせてもらった経験がよくありました。なので、今回のイギリスの子にも私がしてもらった事同様に日本を楽しんでもらい、面倒を見る。そういう感覚があったんですね。

しかしこのイギリス人。日本食が嫌いなのか、一口食べて気に入らなければ残すし、勝手に冷蔵庫を開けて料理しようとするし・・・・。本当に感謝の言葉も無ければ、常に「クミコ」と呼んでは注文だけする。

足も怪我していたので、足の怪我についてのアドバイスも私はしたのですが、私にそんな専門性や知識が無い事により、インターネットや私の薬学系の友達の言う事しか聞かなかったり。

極めつけは、怪我を見てもらうのに韓国のクリニックに行くと言ったので、その理由を聞くと

「韓国人の友達の方が英語が出来るから。」

暗に、私の英語が出来ていない。そう言われたよなものでした。それについて口論になっても、

「私は怪我の事でナーバスなの!分かる?!」

と話を逸らされたのです。

ここまでだと、とても極端な気もしますが、こんな彼女から私は善意について考えさせらたのです。私は、色々彼女に善意を行ったつもりでした。食事も交通費も、「彼女」の為に全部出してました。だから、その善意に感謝の気持ちで応えてくれない彼女に苛立ちを感じました。

しかし、この感情こそイスラム教徒として間違えていたのです。私は、この善意を人間ではなくアッラー(神)に行うべきだったのです。私の善意はアッラーだけが見てくれていて、評価してくれます。そして、その善意が私の来世へと繋がるのです。

は?

そう思われる方もいらっしゃるかもしれません。ですが、この考え方だと少なくとも善意の押し売りは発生していませんよね?後々から、

「私、これだけあなたに対してしたのよ?」

という感情は、生まれないはずです。イスラムは、その意味で本当に個人とアッラー(神)との関係性が第一なんです。ここがしっかり備わってないと、本当の意味でのイスラム教徒とは言えません。

日本人とイスラム教徒の善意の違い

そうなんです。日本人も善意の気持ちはあるのですが、ここの「神」に対するという部分が根本的に違うのです。この違いこそが、無宗教である日本人にとって理解し難いというのも理解できます。しかし、私がイスラム教徒として常に意識している部分でもあります。

私がイスラムの中で気に入ってる部分は、特に教えと実践が密にリンクしている点です。私は、そんな偉いイスラム教徒でも何でもありません。むしろ、ムスリムとしてまだまだ新人です。ですが、自分の人生の体験談でぶち当たった壁や問題がコーランの教えにより、「なるほど!」と思う事が多いのです。

そんなの他の宗教でも一緒じゃん。そうかもしれません。ただ、私がコーランの中で信じているのが、コーランの教えはアッラー(神)が説いたものであり、神の言葉によるものである、と。

コーランでは、何度も出てくる言葉もあります。私がイスラムに入る前は、それを見て「何じゃこりゃ?!」と思ってたものが、時を経る毎に理解できるのです。それは、理屈ではありません。あなたの人生の中で、その意味が見出されるのです。


私の今回書いた事で、少しでもあなたにとってイスラムが身近に感じられたのなら嬉しいです。思っていたよりも、イスラムは深いのです。そして、そんな私も常日頃勉強しなくては思っている今日この頃です!

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