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リアリズムとリベラリズムの政治的な意味の違いとは?

冷戦のリアリズムと国際関係のリベラリズム

国際政治論を選択したあなた!テスト前で、焦ってるかもしれませんね(笑)

私も学生時代、リアリズムとリベラリズムの違いがよく分からずテスト前に焦った人間です。そんなあなたの為に、分かり易くリアリズムとリベラリズムの違いについてまとめてみました。それでは、二つの違いについて見て行きましょう!

リアリズムとは?

リアリズムとは、お互いの国々が自分の国の利益ばかりを考え、武力を備え、相手に攻め込まれないように脅し合うような状況に賛成の立場です。そのような世界では、国際協力の可能性は低く、まして法とか制度などが登場する余地はごくごく少ないです。凄くドライな考え方ですよね。

けど、国際関係においてリアリズムが大きな影響を今なお持っているのには、それなりの理由もあるんです。

国内政治(私達の国の中の政治)には政府がありますよね?一方で、国際関係には政府と呼ぶことのできるような権力(パワー)が存在しないんです。

アナーキーな国際政治

国内の政治なら、政府がお互いケンカの時に、暴力にならないようにしますよね?

意見の違いや利益の対立などがあったとしても、そのような対立は選挙や議会で政党が争う事によって解決されるべき問題とされるからです。武器を取って決着をつける事は、許されません。政府には法があり、法に反する暴力には制裁が待っているのです。

しかし、国際関係には政府がない・・・。

より正確にいえば、どの国よりも上位にあって、各国を取り締まれるような政治権力、世界政府のようなものは、国際関係には存在しないんです。

たとえば、上手く交渉がいかない時に、

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武力で解決する!

と宣言する国家が現れたとします。その武力に訴えた国家に対して確実に制裁が加えられることは、国際関係においては期待できません。政府に頼って安全を保つことができないのならば、自分の身は自分で守るしかありません。

このように、各国は自ら自国を防衛し、自国の利益を第一に掲げて行動することになります。国際社会において、国家を超える権力が存在しない為に、常に気を張り詰め、闘わなければならないというリアリズムの認識があるのです。

こういう国家権力がない状態を、世界が無政府状態(アナーキー)に置かれているという言い方もします。

そもそも、こんな考え方が生まれたのはいつ頃なんでしょうか?

ウェストファリア条約

1618年に始まった「30年戦争」の終結にあたって結ばれた講和条約『ウェストファリア条約』。

この条約を通じて神聖ローマ帝国は事実上解体され、各国がお互いの国を認め合ったのです。これは、ヨーロッパ近代国際社会の基盤が成立したという、大変重要な意義を持ちます。

「無政府の国際政治」としての近代国際政治は、この時に誕生したとされています。

世界政府が存在しないことは今も昔も変わりませんが、そのような「国家に分裂した世界」そのものを認めるために必要な戦争がありました。それが、30年戦争です。

ヨーロッパ世界最後の宗教戦争である30年戦争は、現在ドイツを中心とするヨーロッパ地域にかつてない荒廃をもたらしました。

その後に結ばれたウェストファリア条約とは、ヨーロッパ世界が複数の国家に分裂しているという現実をそのまま受け入れ、宗教と国際紛争を切り離し、ヨーロッパ世界における権力と宗教の統一を諦めさせた条約です。国をお互いに認めるこの考え方は、同時に戦争を認める体系にもなっていったのです!

その後の国際政治体系の特徴

ウェストファリア条約の締結後に、国際政治体系も変化しました。その変化には、大きな2つの特徴があります。

まずは、国家と国家、そういう当たり前の状況を認識することです。それよりも、もっと上の権力は認めず、作らないというルールも、この時に確認されました。

その結果として生まれたのが、「主権の平等」に基づいた「国家の体系」としての国際政治だったのです。それは、世界が国家に分かれているという事実の承認であるとともに、それぞれの国家を併合する強大な権力の出現を阻止するという原則でもありました。

実際、30年戦争以後のヨーロッパは、ナポレオンとナチス・ドイツという2つの帝国を解体へと追い込んだのです。

2つ目に、国際政治の宗教分離です。中世の世界における国王は、キリスト教信仰に、さらにローマ教皇の権威に縛られて、国益を自由に求めることは許されませんでした。

しかし、それぞれの王国が宗教を政治から切り離すということは、国益を自由に追求してもOK!という事なのです。

リアリズム再登場!

自由主義や社会主義の影響で、19世紀末のヨーロッパでは、

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国益とか力の均衡などといった考えは時代遅れだ

という人々が増えてきました。アメリカのウィルソン大統領の影響を受けて設立された統一の為の国際連盟は、リアリズムの克服となるはずでした・・・。

しかし、国際連盟は、ナチス・ドイツによる侵略を阻止することはできなかったのです。第二次世界大戦によって、国際法や国際組織に期待するだけでは、平和を保つことはできないと人々は実感するようになって来たのです。

力関係に目を向けない国際平和の構想への幻滅が広がり、リアリズムに再評価が与えられてゆきます。第二次世界大戦後の国際連合への期待も、冷戦の始まりによって裏切られてしまい、リアリズムが冷戦時代に再登場するのです!

確かに冷戦は、優れてリアリズムの想定が当てはまる時代でした。米ソの対立の中、全く役立たずの国連から、平和構想なんて考えられなかったからです。イギリス・フランス・ドイツなどのヨーロッパ各国のパワーが支配していた時代から、アメリカ・ソ連両国を基軸とする東西2極のパワーバランスへと舞台が変わりました。

しかし、力関係を無視できない事情に変わりはなかったのです。

冷戦時の抑止

冷戦時代の戦略を支えた概念が「抑止」です。当然なんですが、戦争で利益よりも損失の方が大きいと予測できるなら、各国は戦争に訴えませんよね?

次に、自分では戦争を望んでいないけど、相手から侵略される可能性が高い時には、戦争に訴えても構わないと思っている国家を想定してみて下さい。この国家が戦争を避けようとするならば、戦争を仕掛けない国家に対して、

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もし戦争するなら、こっちも反撃するぜぃ?

とはっきりと脅す事が、合理的な選択となります。このように、相手の攻撃を未然に防止するために、威嚇を行う戦略を「抑止」と呼ぶのです。

抑止戦略自体は昔からある方法ですが、核兵器の開発によって大量破壊兵器による仕返しが可能となったために、抑止戦略の意義が高まる事になりました。

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抑止戦略は力の均衡と似ているけれど、重要な違いもあります!

力の均衡においては、相手が戦争に訴えた場合は戦争をすればよいだけでしたが、抑止戦略では戦争に訴えること自体は目的にされていません。

だって、核戦争が始まったら、ホントに世界は破滅の方向へと向かっちゃうじゃないですか・・・。なので、誰もがこの事実を分かっているだけに、抑止において、戦争までは考えられないんです。

しかし、十分反撃を加えられるだけの力を持たなければ抑止効果が生まれないだけに、一方的に軍備を削減することも不合理な選択となります。冷戦期の米ソ関係は、戦争で脅しながら直接の戦争は回避するという、ビミョーな均衡の中で幕を閉じました。

ソ連が崩壊し、冷戦が終わる事によって、核抑止に頼る平和はガラリと変わりました。世界は平和になると思いきや、実はこの「抑止」の考え方、未だに残されているんです。

例えば、北朝鮮や中国。共産主義がなお残され、この地域の安定をめぐっては、力の均衡とか抑止などの概念が現在でも使われています。

国連についても、まだ平和維持の権力は限られており、国際関係から無政府状態という特徴がなくなったとはとてもいうことができないのです。

リアリズムの限界

今の時代、冷戦が終わってしまった為に、リアリズムの存在感は薄れていきました。もしリアリズムの前提が成り立つのなら、アメリカによる権力拡大こそ諸国の安全への脅威となるから、そのアメリカに対抗する広範な同盟が組まれるはずです。

しかし結果としてみれば、冷戦後の日本に典型的に見られるように、アメリカに対抗するどころか、むしろ対米関係の強化に向かう諸国が増加しています。

台頭する大国に対抗する「均衡」政策ではなく、その大国と手を組むバンドワゴン(勝ち馬に乗る)政策を各国が採用した事になりますよね。これはリアリズムの想定とは逆行する現実です。

また、テロ行為のような個人的な暴力は、リアリズムの枠組みの中で対応することができません。国家ではない主体による暴力行為は、伝統的な軍事戦略によって打開することの難しい領域だからです。

ところが、9.11テロ事件の後に見られた「対テロ戦争」とは、テロ組織に立ち向かうよりも、テロ組織を支援しているとおぼしい国家権力に対する戦争でした。そして、アフガニスタンのタリバーン政権を打倒した後、かえってテロ活動が激化してしまいました。

さらに、国家主体の弱体化や崩壊が問題の本質となっているとき、相手の戦力を撃退するだけでは問題は解決しません。そこでは、その地域における既存体制の変化(レジーム・チェンジ)と新体制の構築という課題が生まれるからです。

この外から新しい権力を作るというレジーム・チェンジ。圧倒的な軍事力を保持していても簡単に実現できないんです。このように、リアリズムは最近の戦争の中で、段々と当てはまらなくなってきたのです。

つまり、冷戦の世界においてはまさにこのリアリズムは当てはまったのですが、今日の世界においては徐々に当てはまらなくなってきている、というのが現状みたいですね。

リベラリズムとは?

リベラリズムとは、個人を社会の主体としてとらえる思想です。意味、分かりましたか?そもそも、リベラリズムは、リアリズムに対する疑問から生まれた考え方なんです。確かに、戦争を前提としているリアリズムの考え方って、

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平和の事ちゃんと考えてる?

ってなりますよね。

リアリズムは、国内政治と国際政治を別々に考えます。一方、リベラリズムは市民社会の延長として国際関係を捉えるので、国内・国際政治の区別がないんですね。

伝統的には国王が勝手に決めても良かった戦争について、自由主義は、議会の承認を通して、国際関係においても市民の利益や理念が反映されるべきだ、と主張しました。

これをもっと拡大させたのが、思想家カントです。「共和制」を樹立することによって国内では市民的自由が保障されるとともに、国際平和も実現されると考えられていました。

リベラリズムは、市場経済の変化に注目する経済的リベラリズムと、国内政治のしくみの変化に注目する政治的リベラリズムの2つに分ける事が出来ます。

この2つの背後には、国内社会における民主化の進展と、それにともなう世論の役割の増大。また国際貿易の拡大と世界市場の統合という、近代世界の特徴があったのです。

民主化が進み、あるいは市場の統合が進めば伝統的な国際政治の体系も変わるのではないかと考えるのです。

経済的リベラリズム

経済的リベラリズムとは、市場経済の拡大によって、国家と国家との間の協力の機会が増大するという考え方です。

ある国が得をすれば、ほかの国が損をするというゼロサム関係しか国際関係に存在しないとすれば、自国の利益を拡大するためには、他国の利益を犠牲にしなければなりません。なので、国家間の協力の機会は乏しくなります。

しかし、国際関係はゼロサム関係ばかりではありません。複数の国家が、同時に得をするノンゼロサム関係も存在するからです。そして、経済取引の拡大によって、ゼロサム関係よりもノンゼロサム関係が増加するのではないか、というのが経済的リベラリズムなのです。その鍵が、国際貿易の果たす役割です。まず、

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貿易の拡大は、経済発展の為に有利だ。

という前提を置きます。この場合、ある国が経済を発展させたいならば、貿易の拡大が望ましいことになりますよね?ここで戦争が発生した場合、交戦国の間では貿易が行われない、あるいは貿易が大幅に減少します。

こうなってくると、相手国との貿易を止めない限り、戦争に訴える事はあり得ません。相手国との貿易の規模が大きければ大きいほど、戦争に訴えた場合に生まれる経済的影響が大きいことになります。

つまり、貿易が拡大すればするほど、戦争に訴える可能性も小さくなるのです。

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国際貿易こそが、平和の条件だ!

という考え方が、ここから生まれたんです。この考え方の起源は古く、すでにアダム・スミスは、著書『国富論』(1776年)において、

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貿易の拡大が経済的に合理的だ

という主張を展開しました。この当時のヨーロッパでは、貿易活動への課税によって、国家財政をまかなう重商主義政策が広く見られていましたが、アダム・スミスはこれに反対しました。貿易への規制や課税は貿易活動を停滞させることから、経済的にはマイナスになると考えられたのです。

アダム・スミスの主張の中で注目すべきは、貿易の拡大が同時に戦争の合理性を低下させるという判断です。ヨーロッパの国王が税金を強化した理由は、豊かな財政をもとに軍を強化し、各国との戦争に勝つためでした。

アダム・スミスから見れば、このような戦争とは、資源の浪費にほかならなかったのです。経済的リベラリズムの思想は、こんな昔から続いている思想なんですね。

政治的リベラリズム

リベラリズムのもうひとつは、国内政治の変化によって国際関係が変わるというものです。つまり、指導者が国内政治のあり方を対外政策にも反映させなければならない、と考えた時に国内政治と国際政治の結び付きは生まれます。

その中において、もちろん国家が主体なんですが、国家権力を担う指導者が市民社会に責任を負うかぎりにおいて、間接的とはいえ、市民社会が国際関係における主体として登場することになります。

近代社会において、市民社会と無関係に権力を支配することは難しくなっていきました。

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国家は社会に責任を負うべきだ。

こういう主張を、どの近代の政治思想の中でも見られるようになるんですね。政治的リベラリズムには、戦争の合理性に対する新しい判断も含まれていました。

国王は国家の利益のためではなく、国王の私的な利益や野心のために戦争をしているのではないか?そして、国王が容易に戦争を起こすのは、戦争によって自分の生命や財産を脅かされる危険が乏しいためではないのか?

逆に、一般市民は、その逆です。戦火に巻き込まれる事で生命を脅かされ、戦争のために課せられる重税によって自分の財産を奪われる側にあるので、国王よりも戦争に対して慎重な判断を行う可能性があります。

こうして、市民が国際政治の中で平和を望めば、戦争に慎重になるという結論が導かれたのです。

この議論を最初に展開したのがカントで、著作『永遠平和のために』(1795年)でした。

カントは王制に対して共和政を置き、

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共和政の実現によって市民の考えが外交に投影され、国王の恣意的な判断に基づく戦争がなくなるだろう

と主張したのです。

リベラリズムなう。

国際関係におけるリベラリズムが市場の統合と政治体制の民主化に目を向けるものであったとすれば、現代に近付くにつれてこの考え方が説得力を増してきた事も納得ですよね。

国際貿易と民主政府の拡大こそ、20世紀後半から現在にかけて現代世界で起こった最大の変化だったからです。アダム・スミスとカントの主張は、形を変えて現代にも残っている思想だったんですね!

リベラリズムの限界

経済のグローバル化や各国の民主化が同時に進む冷戦後の世界は、リベラリズムが勝利を収めた時代のように見えるかもしれません。

しかし、「紛争」を見ればそれが幻想にすぎない事がはっきりするでしょう。

まず、経済のグローバル化は、相互依存の増大をもたらす一方で、市場経済の勝者と敗者を生み出してしまいます。政府が規制緩和と市場統合を目指したとしても、国内社会はそれを受け入れるとは限りません。

さらに、グローバル化にともなう西欧社会の「消費生活」は、非西欧世界では「伝統」への挑戦としてとらえられることも珍しくないのです。

西欧料理のレストラン、ディスコ、さらに世界貿易センターなどがテロリストの標的に選ばれてきたことを見れば、新たな暴力の引き金となっている事に気付くはずです。

そもそも、ヨーロッパ諸国の間で最も急速に貿易の拡大した時代が第一次世界大戦直前であったことからもわかるように、相互依存の発展が戦争を抑止する保証はありません

現在でいえば、中国が急速に世界市場に統合されつつあるのは事実です。しかし、その中国は急増したエネルギー需要に応えるため、スーダンやイランなどから石油輸入を拡大し、領土問題を引き起こす危険を冒して近海のガス田開発を進めています。この例からも、新たな紛争を引き起こしそうな予感しますよね・・・。

また、民主化の拡大が平和を保証するわけではありません

まず、民主的平和論は「安定した」民主主義国に当てはまる議論であって、誕生して間もない民主主義国が世界に立ち並ぶ時代に直接当てはめることはできないのです。

むしろ民主化すれば世論が外交に参入することになるから、それに対して偏見を持っている人がいれば、それまで以上に偏見を表すことになります。

アルジェリア、エジプト、パレスティナ、イラクなどで行われた選挙によってイスラム急進勢力が台頭したことからわかるように、民主化の進展も、短期的には国際危機を助長する危険があります。

そして、外部からの力によって独裁政権を倒したからといって、その土地に民主政治が実現される保証はないのです。民主政治が生まれるためには、その土地にデモクラシーの担い手が必要だからです。各国の独裁を倒せば世界が平和になるという期待には、全く根拠がないんですよね。

相互依存も民主化も、新たな紛争を含んだものです。なので、果たしてリベラリズムがどこまで国際政治で通用するのか・・・・。経済不況や紛争・戦争のないような時代には、このリベラリズムの考えは当てはまりやすいのでしょうが、現在でもなかなか平和的な外交交渉は進んでおりません。結局は、リベラリズムもまた限られた領域にとどまってしまうのです。


いかがでしたでしょうか?全く異なるこの二つの思想。ちゃんと勉強しようとすると深いですよね。ぜひこの記事を、テスト勉強に役立てて下さいね。それでは、あなたが単位取得できる事を願って!

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