日本人の私がイスラム教に改宗した5つの理由

日本人のムスリム(イスラム教徒)改宗の理由

はじめに

「一体どうしてイスラム教徒になったの?」

―最近よく聞かれる質問がこれです。

そのたびに私はいちから説明するのですが、そろそろ面倒になってきてしまいました。なので、ここに「なぜ私がムスリムになったのか」を詳しく語ろうと思います。

皆さんはイスラムと聞くと、まず何を思い浮かべますか? 「テロ」、「オサマビン・ラディン」…私の友人はそういった言葉をよく口にします。確かに、イメージとしてあると思います。(というか、私だって最初はそういうイメージしかなかった!)だから、「イスラムって何か危険・・・・。」って最初に思ってしまうのも無理ないですよね。でも、私が去年関わったムスリム(因みに、ムスリムはイスラム教徒の人達の事ね^^)の人達の純粋無垢な瞳を見たときに、「この人達は何でこんなに人を信じられるんだろう?何で前向きでいられるんだろう・・・?」とふと疑問に思ったんです。

それが、私にとってのイスラムの第一歩でした。

熱心すぎるムスリム・・・

去年の秋ごろでしょうか。私は某サイトで海外の人達との交流を始めていました。そこで偶然、ムスリムの人に出会ったのです。彼は本当に熱心なイスラム教徒でした。会話には常に宗教を感じさせるものがあり、最初は思わず敬遠しましたが、彼を通してひとつ、心に留まった事があったんです。それが、「貧しくても心が満たされている」という発言。私は、心が満たされる状態というのを、今まで感じたことがありませんでした。どんなに楽しくても、どんなに嬉しくても、友達と遊んでいる時ですらも、何故か心に空虚感やどこかしらの寂しさがありました。「自分」としてしっかり地に足を付けて生きていない気がしていました。

彼の話を聞いているうちに、自然と涙が溢れてきました。何故なのかははっきりとは分かりません。おそらく、彼が彼自身の人生に満足している事こそが、私にとって羨ましかったのでしょう。

あとは、私の思想として、社会主義や平和主義を好む傾向が強く(本当に戦争とか争い事とかが嫌いなんです!)イスラムと関わった時期がちょうど、「マルクス社会主義は私の思想とは少し違うぞ?!」と思い始めた時期でもありました。―私、究極の平等って、人との差異を受け入れて、そこでその人達の立場に立って物事を考えることだと思うんです。決して、自分の主義ばかりに立って、ただただ奇麗事を振りかざす事が、良いとは思えません。子供の時に散々言われましたよね?「人の立場に立って、物事を考える」。たとえ、その対象者が悪人であったとしても。…だけどこれって、簡単に見えて、実際に出来る人は少ないのではないでしょうか。私はその熱心なムスリムに「何故イスラムの人達は闘いをするの?」と尋ねてみました。すると彼は「それじゃ、誰か殺人者が自分の家に入ってきたら、クミコはどうする?戦うだろ?」と言われました。私は、「まず、その殺人者の気持ちに立って考えたい。その人がその事をするだけの背景があったなら、仕方ないと思える。」(まぁ、私の意見も大概甘ちゃんですよね。そんなこと言ってたら簡単に殺されちゃいます;)と答えました。

なので、私はやっぱりムスリム過激派やジハード的な考え方には反対です。それでは、その思想以上の何が、私にとって魅力に思えたのか…。

日本語でコーランを読んでみる

納得できない部分もイスラムにありつつ、せっかくなのでコーランを読んでみるか!と思い立ちました。もともと、何か新しいことを学ぶのは好きなので、友達から日本語版コーランを貰い、読んでみました。あとは、イスラムについてインターネットで調べてみたりもしました。そうしてどんどん知っていくうちに、「イスラムって結構、社会貢献や家族関係の規律がしっかりしているぞ?」と思い始めました。―まず、貧しい人達に対しての施しが、制度としてしっかり存在しているんです。皆さんよく御存じ、断食なんかが良い例です。この期間、太陽が出てから日没まで、食べ物・飲み物は一切口に出来ません。これは、「貧しくて食べるものがない人の立場になってみよう」というイスラムの醍醐味です。

イスラムはよく閉鎖的な社会だと聞いたことがあります。私もそのように感じることはありますが、コーランを読み、ムスリムの人達を見ているうちに、必死で自分たちの文化を守ろうとしているように思えます。「閉鎖的」というよりは、自分達を守ろうとしている「保守的」という言葉の方が似合う気がします。縦の繋がりよりも、横の繋がり・人との共同体としての意識。これって、昔の日本が持っていたものと非常に近いと思いませんか?

日本に限らず、先進国の国々がアメリカの文化を輸入した事により、自国の文化が衰退していきましたが、イスラムはその中で、必死で自国の文化を守っているように思います。そこに、凄く共鳴したのを覚えています。私は昔から日本史が好きで、日本の共同体的な社会システムが好きでした。もちろん、悪い面もあります。彼氏と別れた等のプライベートな噂が、おばさん達の間ですぐ広まってしまうとか(笑)

私は、イスラムから日本の古き良き時代の文化に似たものを感じました。その出逢いは、偶然のように見えて、必然であったのかもしれません…。

とりま、モスクに行ってみよ!

着実にイスラムに興味を持ってきた私ですが、思想の面では共感を持つことが出来ても、もともとは神を信じたことなどない「無神論者」です。なので、信じる対象は、今まで「自分自身」でした。だから、誰かに頭を下げてお祈りをするのって、本当に奇妙に思えて。イスラムのお祈りをYouTubeで見た時に、その格好が土下座にしか見えなかったし…。そして、アッラーに対する印象も、「私の友達に似てるやん。あはは」と思っていた程度の人間です。信仰心って、日本人は特に持ちにくいと思うんですね。大体、宗教って、日本ではオカルト宗教などの危ないイメージがあるし。―そこで、ムスリムの人達と直接関われば何か分かるかも知れない!と思い、家の近くのイスラム文化センター(なんと家から自転車で5分の所に!)を訪れてみることにしました。

どんなに行動的な私でも、最初は緊張しました。…というのも、イスラムの世界では男女というものは明確に区別され、一階ではムスリムの男性のみがお祈りをしていたからです。二階に女性のための部屋があると案内され、行ってみると、そこには沢山の子供達とそのお母さん達が。子供達はとても活発的で、女性達とはとてもフレンドリーでした。最初、アラビア語で会話している女性達を見て、しかも顔の剣幕が厳しかったので、「私、もしかして、来たらまずかったのでは…?」と不安になりました。ただ、すぐに英語で話しかけてきてくれて、凄く歓迎してくれました。

それから、私は毎週水曜日にその施設を訪れることにしました。どうやってムスリムが信仰心を持っているのかを知ろうと思ったからです。通っているうちに、大きな2つの発見がありました。1つ目は、ムスリムの女性達って凄くおとなしいイメージがあったんですけど、それとは真逆で、パワフルな人達が多かったことです。基本、目を合わせると笑顔で返してくれて。そして、非常によく喋るんです!

2つ目は、イスラムの規則が凄く厳しいイメージとは裏腹に、ムスリムの人達は心から神を信じているので、前向きに物事を考えている人が多いように見受けられたことです。よく観察していると、皆アッラーに対して祈った後に、自分の今日一日の出来事…例えば悲しかったこと、嬉しかったこと等を打ち明けていたんです。ある人に尋ねてみると、アッラーは私達の行動・言動全てを見ているのだそうです。だから、私達は悪いことが出来ない、と。

だんだんムスリムの人達と関わっていく中で、私自身の中の「神」の作り方が分かった気がしました。というのも、神に対して祈りを奉げるという行為そのもので、自分自身を客観視できるんだと思います。皆さんも、誰かに話を聞いて貰える安心感ってありますよね?けど、人に信頼を置くこと程、不確かなものはありません。私は、前までは友人関係に重きを置いていました。しかし、皆それぞれ違う大学に行って、それぞれのコミュニティーを持っていきました。―どんなに信頼できる友人であっても、ずっと傍にいてくれるわけではありません。裏切らないとも限りません。だからこそ、それと似たような存在であり、決して裏切ることのない神に信頼を持つことによって、「個人」というものを安定させているんだ。そう自分の中で納得したのです。

ヒジャーブって?

ヨーロッパで結構な批判を浴びるのが、女性の顔を覆い隠すスカーフ。こんなものを何故ムスリムの女性達は被るのか…。

それについてネットで調べていると、目に留まった記事が一つ。あるムスリムの女性が答えた事で、「私達はあえてヒジャーブを被る」のだそうです。なぜかというと、「学識のない男達に襲われたくない」から。ここで、私のヒジャーブに対する認識が変わりました。ヒジャーブは、女性の身体を守るためにあるのではないか、と。

コーランでは、「女性は陰部を隠しなさい」という表記があり、女性達は手足・顔以外は隠さなければなりません。確かに、これって男性からしたら面白くないかもしれません。露出が多い方が男性にとっては良いですもんね。ただ、女性が自分の身体をあえて隠す事って、同時に自分の身体を大切にすることにもなるんじゃないかと思います。女性が大胆に身体を見せていく事によって、女性自身の価値観もどんどん落としていっているように思えます。アイデンティティーの誇示としての露出は尊敬できる部分もありますが、性的な意味だけの露出だと、男性が女性を性的対象として見てくることに繋がるし、結局はそのような関係しか求めて来ないでしょう。

やはり、恋愛や結婚って、お互いのコミュニケーション・相互関係の信頼があってこそ、成り立って行くと私は考えるんですね。もしかしたら、私の考え方は古臭くて、堅苦しいかもしれません。ただ、今日の女性を性的な意味合いで捉える広告・メディアがどれだけ多いことか!その意味合いの中で、私はヒジャーブという被り物を尊重しています。

ムスリムになってからの私の価値観

私がムスリムになってから、大きく変わった事が二つあります。一つ目は、自分が女らしくなれたこと。二つ目は、家族関係がしだいに良好になっていったこと。

正直、ムスリムになったのは、ある日本人ムスリムの子と話をして、その刺激によって決意したという部分もあります。半分勢いでした。しかし、それに後悔はありません。なぜなら、結果として自分自身にプラスになるようなことが多かったからです。

まずは、自分が「女」としての性を受け入れられたこと。私は、今まであまり自分が女の子ということを自覚してきませんでした。むしろ、自分の性に悩んでいたくらいです。他の女子が好きなものと、自分が好きなものがずれていたり、団体行動より個人行動を好んだりで、なかなか女子と仲良く!ということが難しかったのです。そして一方で、いつも自由に「自分」を表現している男子が羨ましかった。どんな個性を持っていても、それを否定されない…。昔、男子という生き物が、本当に羨ましかったんです。

しかし、私は一度真剣に「男女どっちが得か?」という事を考えました。その結果、最初は男子の方が得なことも多いかもしれないんですが、のちのち結婚とかの事を考えると、男性の責任というのは、大きいと思ったのです。自由な分だけ、自己責任も大きい。それを考えたら、今私が男子になったとしても、損なことの方が多いように思いました。そんな無駄なことを一回真剣に考えたために、私の中のジェンダーという意識は、他の人以上に強いように思います。そして、私は結果として「女子として生きる」と決意しました。

しかし、心のわだかまりみたいなものは残っていて、自分が女子ということになんとなく抵抗を感じていました。それは、女子の会話が多くは感情的なもので成り立っているのが、どうしても理解出来なかったんです。「なんで、そんな意味のない話をするの?」「なんで話を途中で打ち切るの?」と、本当に謎だらけでした。「感情的=馬鹿」と心のどこかで思っていたのでしょう。だから、ずっと気を張った状態だった気がします。イスラムに入信してから、私は何故か、自分が女という性であることを心から受け入れられたような気がします。一気に、気持ちが楽になったんです。そんなに頑張らなくて良い、自分の気持ちをもっと出しても良いんだと、前より思えるようになりました。

二つ目は、家族関係が少しずつ私の中で変わっていったことです。実は前まで、自分の家族がそんなに好きではありませんでした。早く、自立して家を出て行きたい気持ちしかなかったんです。

しかし、ムスリムの友達は常に、「クミコ、両親を大切にしなさい。そして、彼らを尊敬しなさい。」と言ってきました。私はこれだけは本当に嫌で、受け入れるのに時間が掛かりました。ですが、「もしクミコが一人になったとして、誰が助けてくれる?もしかしたら、友達も助けてくれないかもしれないよ?私ですらも。なぜなら、私達は他人だから。ただ、家族だけが、どんな時でも味方になってくれる。だから、クミコの家族も大切にしなさい。」この言葉が私を動かしました。

せめて父の日・母の日は祝ってあげようと心に決めました。そしてプレゼントを買い、あげてみると、思いのほか父も母も喜んでくれました。父には、初めて「ありがとう」と言われたように思います。それから、私はなるべく家族とコミュニケーションを取るように私なりに頑張っています。まだまだ、素直になれなくて、良い親孝行者だとは思わないけれども、私なりの方法で、家族を受け入れ始めています。

これが、私の全てです。