
イスラム教徒になってよく聞かれるのが、

一体どうしてイスラム教徒になったの?
という質問です。
そのたびにひもくみはいちから説明するのですが、

そろそろ面倒になってきてしまいました…!
なので、ここで「なぜ私がイスラム教徒になったのか」を詳しく語ろうと思います。
皆さんはイスラムと聞くと、まず何を思い浮かべますか?
- イスラムテロ
- オサマビン・ラディン
私の周りの人達はそういった言葉をよく口にします。
確かに、そういう「イスラム=危険」というイメージはあると思います。

というか、ひもくみも最初はそういうイメージしかなかった!
でも、私がイスラム教徒になる前に関わったムスリム(イスラム教徒)の人達の純粋無垢な瞳を見た時に、

この人達は何でこんなに人を信じられ前向きでいられるんだろう?
とふと疑問に思ったんです。
それが、私にとってのイスラムへの第一歩でした。
熱心すぎるイスラム教徒との出会い
大学生の頃に、ひもくみは某サイトで海外の人達との交流を始めていました。
そこで偶然、ムスリムの人に出会ったのです。
彼は本当に熱心なムスリムでした。
会話には常に宗教を感じさせるものがあり、最初は思わず敬遠しましたが、彼を通してひとつ心に留まった事があったんです。
それが、

貧しくても心が満たされている
という発言。

ひもくみは心が満たされる状態というのを、今まで感じたことがありませんでした
どんなに楽しくても、どんなに嬉しくても、友達と遊んでいる時ですらも、何故か心に空虚感やどこかしらの寂しさがありました。
「自分」としてしっかり地に足を付けて生きていない気がしていました。
彼の話を聞いているうちに、自然と涙が溢れてきました。
何故なのかはっきりとは分かりません。
おそらく、彼が彼自身の人生に満足している事こそが、私にとって羨ましかったのでしょう。
あとは、私の思想として平和主義を好む傾向が強く、

(本当に戦争とか争い事とかが嫌いなんです!)
イスラムと関わった時期がちょうど、

マルクス社会主義はひもくみの思想とは少し違うぞ?!
と思い始めた時期でもありました。
究極の平等って人との差異を受け入れて、そこでその人達の立場に立って物事を考えることだと思うんですね。
決して自分の主義ばかりに立って、ただただ奇麗事を振りかざす事が良いとは思えません。
子供の時に散々言われましたよね?
人の立場に立って、物事を考える。
たとえ、その対象者が悪人であったとしても。
だけどこれって、簡単に見えて実際に出来る人は少ないのではないでしょうか。
私はその熱心なムスリムに

何故イスラムの人達は闘いをするの?
と尋ねてみました。
すると彼は

それじゃ、誰か殺人者が自分の家に入ってきたら、ひもくみはどうする?戦うだろ?
と言われました。
そして、私は

まず、その殺人者の気持ちに立って考えたい。その人がその事をするだけの背景があったなら仕方ないと思える
と答えました。
なので、その当時の私はムスリム過激派の極端な考え方には反対でした。
それでは、その思想以上の何が、私にとって魅力に思えたのか…。
イスラム思想に純粋に共感できた
納得できない部分もイスラムにありつつ、

せっかくなのでコーランを読んでみるか!
と思い立ちました。
コーランとは、キリスト教でいう聖書のようなもの。
もともとひもくみは何か新しいことを学ぶのは好きなので、友達から日本語版コーランを運良く貰い読んでみました。
また、イスラムについてインターネットで調べてみたりもしました。
そうしてどんどん知っていくうちに、

イスラムって結構、社会貢献や家族関係の規律がしっかりしてるんじゃね?
と思い始めました。
まず、貧しい人達に対しての施しが制度としてしっかり存在しているんです。
皆さんよく御存じ、断食なんかが良い例です。
この期間、太陽が出てから日没まで食べ物・飲み物は一切口に出来ません。

貧しくて食べるものがない人の立場になってみよう
というのがイスラムの醍醐味です。
イスラムはよく

閉鎖的な社会だ
と聞いたことがあります。

私もそのように感じることはあります
ですが、コーランを読みムスリムの人達を見ているうちに、必死で自分たちの文化を守ろうとしているように思えたのです。
「閉鎖的」というよりは、自分達を守ろうとしている「保守的」という言葉の方が似合う気がします。
縦の繋がりよりも、横の繋がり・人との共同体としての意識。
これって、昔の日本が持っていたものと非常に近いと思いませんか?
日本に限らず先進国の国々がアメリカの文化を輸入した事により、自国の文化が衰退していきましたが、イスラムはその中で必死に自国の文化を守っているように思えたのです。

そこに凄く共鳴したのを今でも覚えています
私は昔から日本史が好きで、日本の共同体的な社会システムが好きでした。
もちろん、悪い面もあります。
彼氏と別れた等のプライベートな噂が、おばさん達の間ですぐ広まってしまうとか(笑)
私はイスラムから日本の古き良き時代の文化に似たものを感じました。
その出逢いは偶然のように見えて、必然であったのかもしれません…。
神(アッラー)への信仰心が持てた
着実にイスラム教に興味を持ってきたひもくみですが、思想の面では共感を持つことが出来ても、もともとは神を信じたことなどない「無神論者」です。
なので、信じる対象は、今まで「自分自身」でした。
だから、誰かに頭を下げてお祈りをするのって本当に奇妙に思えて。

イスラムのお祈りをYouTubeで見た時に、その格好が土下座にしか見えなかった…
そして、アッラーに対する印象も、

私の友達に似てるやん。あはは
と思っていた程度の人間です。
信仰心って、日本人は特に持ちにくいと思うんですね。
大体、宗教って日本ではオカルト宗教などの危ないイメージがあるし。

ムスリムの人達と直接関われば何か分かるかも知れない!
と私は思い、家の近くのイスラム文化センターを訪れてみることにしました。

どんなに行動的なひもくみでも、最初は緊張しましたよ…!
というのも、イスラムの世界では男女というものは明確に区別され、一階ではムスリムの男性のみがお祈りをしていたからです。

二階に女性のための部屋がある
と案内され行ってみると、そこには沢山の子供達とそのお母さん達が。
子供達はとても活発的で、女性達とはとてもフレンドリーでした。
最初、アラビア語で会話している女性達を見て、しかも顔の剣幕が厳しかったので、

ひもくみ、もしかして来たらまずかったのでは…?
と不安になりました。
ただ、すぐに英語で話しかけてきてくれて凄く歓迎してくれました。
それから、私は毎週水曜日にその施設を訪れることにしました。
どうやってムスリムが信仰心を持っているのかを知ろうと思ったからです。
通っているうちに、大きな二つの発見がありました。
一つ目は、ムスリム女性にパワフルな人達が多かったことです。

ムスリムの女性達って、凄くおとなしいイメージがあったんですけど違ったみたいです(笑)
基本、目を合わせると笑顔で返してくれて。
そして、とてもよく喋るんです!
二つ目は、前向きに物事を考えている人が多いように見受けられたことです。
イスラムの規則が凄く厳しいイメージとは裏腹に、ムスリムの人達は心から神を信じているから出来る考え方ですね。
よく観察していると、皆アッラーに対して祈った後に、

今日はこんな事が嬉(悲)しかった
と自分の今日一日の出来事を打ち明けていたんです。
ある人に尋ねてみると、

アッラーは私達の行動・言動全てを見ているのよ。だから、私達は悪いことが出来ないの
と言われました。
だんだんムスリムの人達と関わっていく中で、私自身の中の神の作り方が分かった気がしました。
というのも、神に対して祈りを奉げるという行為そのもので、自分自身を客観視できるんだと思います。
皆さんも、誰かに話を聞いて貰える安心感ってありますよね?
けど、人に信頼を置くことほど不確かなものはありません。

ひもくみは前までは友人関係に重きを置いていました
しかし、皆それぞれ違う大学に行って、それぞれのコミュニティーを持っていきました。
どんなに信頼できる友人であっても、ずっと傍にいてくれるわけではありません。
裏切らないとも限りません。
だからこそ、それと似たような存在であり、決して裏切ることのない神に信頼を持つことによって、「個人」というものを安定させているんだ。
そう自分の中で納得したのです。
頭の被り物(ヒジャブ)が気に入った
ヨーロッパで結構な批判を浴びるのが、女性の顔を覆い隠すスカーフ。
こんなものを何故ムスリムの女性達は被るのか…。
それについてネットで調べていると、目に留まった記事が一つ。
あるムスリム女性が答えた事で、

私達はあえてヒジャブを被る
のだそうで、

学識のない男達に襲われたくないから
というのが理由でした。
ここで、ひもくみはヒジャブに対して

女性の身体を守るためにあるのではないか?
と認識が変わりました。
コーランでは、
女性は陰部を隠しなさい
という表記があり、女性達は手足・顔以外は隠さなければなりません。
確かに、これって男性からしたら面白くないかもしれません。
露出が多い方が男性にとっては良いですもんね。
ただ、女性が自分の身体をあえて隠す事って、同時に自分の身体を大切にすることにもなるんじゃないかと思います。
女性が大胆に身体を見せていく事によって、女性自身の価値観もどんどん落としていっているように思えます。
アイデンティティーの誇示としての露出は尊敬できる部分もあります。
しかし、性的な意味だけの露出だと、男性が女性を性的対象として見てくることに繋がり、結局はそのような関係しか求めて来ないでしょう。
やはり、恋愛や結婚ってお互いのコミュニケーション・相互関係の信頼があってこそ、成り立って行くと私は考えるんですね。

もしかしたら、ひもくみの考え方は古臭くて、堅苦しいかもしれません(汗)
ただ、今日の女性を性的な意味合いで捉える広告・メディアがどれだけ多いことか!
その意味合いの中で、私はヒジャブという被り物を尊重しています。
そんなヒジャブについてさらに詳しく知りたい方は、
「ヒジャブ」をイスラム教徒(ムスリム)達はなぜ被るのか?
何故イスラム教徒の女性たちは肌をベール(布)で覆い隠すのか?その理由をイスラム教の教えや気候・歴史的背景、最近のムスリムファッション事情から説明しているのがこの記事。ヒジャブについて興味がある方はぜひ読んでみて下さい!
こちらの記事もお読み下さい。
自分が「女性」として受け入れられた
私がムスリムになってから、大きく変わった事があります。
それは、自分が女性らしくなれたこと。
正直、ムスリムになったのはある日本人ムスリムの子と話をして、その刺激によって決意したという部分もあります。

半分勢いでした(笑)
しかし、それに後悔はありません。
なぜなら、結果として自分自身にプラスになるようなことが多かったからです。
まずは、自分が「女」としての性を受け入れられたこと。
私は、今まであまり自分が女の子ということを自覚してきませんでした。
むしろ、自分の性に悩んでいたくらいです。
他の女子が好きなものと、自分が好きなものがずれていたり、団体行動より個人行動を好んだりで、

なかなか女子と仲良く!ということが難しかったのです
そして一方で、いつも自由に「自分」を表現している男子が羨ましかった。
どんな個性を持っていても、それを否定されない…。
昔、男子という生き物が本当に羨ましかったんです。
しかし、私は一度真剣に

男女どっちが得か?
という事を考えました。
その結果、最初は男子の方が得なことも多いかもしれないんですが、のちのち結婚とかの事を考えると、

男性の責任というのは大きい
と思ったのです。
自由な分だけ、自己責任も大きい。
それを考えたら、今私が男子になったとしても、損なことの方が多いように思いました。
そんな無駄なことを一回真剣に考えたために、私の中のジェンダーという意識は他の人以上に強くなったのです。
そして、私は結果として「女子として生きる」と決意しました。
しかし、心のわだかまりみたいなものは残っていて、自分が女子ということになんとなく抵抗を感じていました。
それは、女子の会話が多くは感情的なもので成り立っているのが、どうしても理解出来なかったのです。

なんで、そんな意味のない話をしたり途中で話を打ち切るの?
と本当に謎だらけでした。
「感情的=馬鹿」と心のどこかで思っていたのでしょう。

今思うと、そんな事を思っていたひもくみがバカだと思います…!
だから、ずっと気を張った状態だったのです。
イスラム教に入信してから、私は何故か自分が女という性であることを心から受け入れられたような気がします。
冷え切った家族関係を見つめ直せた
ムスリムになってから、私の家族関係の捉え方が少し変化しました。
実は前まで、自分の家族がそんなに好きではありませんでした。
早く自立して、家を出て行きたい気持ちしかなかったんです。
しかし、ムスリム友達は常に、

ひもくみ、両親を大切にしなさい。そして、彼らを尊敬しなさい。
とアドバイスしてきました。
私はこれだけは本当に嫌で、受け入れるのに時間が掛かりました。
ですが、

もしあなたが一人になったとして、誰が助けてくれる?もしかしたら、友達も助けてくれないかもよ?私ですらも。なぜなら、私達は他人だから。ただ、家族だけが、どんな時でも味方になってくれる。だから、あなたの家族も大切にしなさい
この言葉が私を動かしました。

せめて父の日・母の日は祝ってあげよう
と心に決めたのです。
そしてプレゼントを買いあげてみると、思いのほか父も母も喜んでくれました。
父には初めて

ありがとう
と言われたように思います。
時は経て10年近く経った今では、家族関係が随分と改善されたように感じています。
父は最初かなりイスラム教への抵抗がありましたが、飲み仲間のおじさんに私がムスリムになったという話をしたらしく、

これ飲んでたおじさんに貰った本やからあげるわ
と私にサウジアラビアのメッカの本を渡して来ました(笑)
一方、母も私がイスラム教となる事への抵抗はありましたが、

イスラム教は好きじゃないけど、ひもくみは好きやし
という言葉で豚汁を作った時に鍋を2つ用意してくれ、1つの鍋は豚肉が入っていないひもくみ用を作ってくれました。
ムスリム友達もひもくみ家に遊びに来たり、泊まりに来たりしたので、父母にとっては私がイスラム教徒だというのは

自然になって来たな
と感じています。
これが、私の全てです。