『アスペルガー』の息子を育てた母の9つの実話エピソード

『アスペルガー』の息子を育てた母の体験エピソード

私の弟はアスペルガーです。現在46歳、85歳の母と二人で鹿児島に住んでいます。約8年前に精神科のお医者さんから母に弟との日々を文章に書くようにアドバイスがありました。その時書いたものをご紹介します。現在、同じような状況の人たちと少しでも思いを共有できたら、幸いです。

2007年鹿児島に来てこれから私と息子の住む家を契約して、やっと新幹線に乗り込み帰路大阪に向かった。車中の5時間はこれで良かったかと不安は次々と襲った。75歳にして30数年住み慣れた土地を離れる事は私よりも兄、姉、娘たちが心配してくれた。

育てにくい息子の問題行動

高校3年生になった時、息子の行動が一変した。扇風機は壊す、ガラスは割る、椅子は投げ飛ばす、朝作った弁当を学校に行く前に手掴みで食べる、その目を見ていると親に対する敵意を言葉ではなく行動でやってのけているかんじだった。私たち家族は息子は今までがいい子だったので思春期のむしゃくしゃが一度にでたのだろうと思っていた。

早速大阪のスクールカウンセラーを紹介してもらって相談に行った。父親を誘ったが仕事を優先して行かなかった。主人もまさかこれから先こんなに重い十字架を背負うとは想像だにしなかったと思う。先生から始めに

「お母さん一人で来たのですか」

と言われた。その時これは大変な問題になりそうだと事の重大さを感知した。

先生は色んなケースを取り上げて、これは、1年はかかると言われた。こんな状態の息子と1年も付き合わなければならないかと流行歌にもあるように雨降る御堂筋をとぼとぼと歩いて帰った。ところが、これが1年2年で解決できる問題ではなかった。

息子は修学旅行にも行けず、卒業式には何度も先生も呼びかけて下さったが、出なかった。卒業証書は私が貰いに行った。先生もまさか息子が家庭では鬼が火を吹いたような怪物になっているとは夢にも思わなかったでしょう。

進路についても親子の会話は出来ないまま息子は勝手に大阪にある写真専門学校を選んだ。月謝と小遣いは封筒に入れたまま、手渡しは出来ないので息子の部屋の前に置いていたように思う。2年通ったが、それは卒業証書1枚貰ったに過ぎなかった。写真機のフィルムさえ入れられない息子に

「お前はどこまで馬鹿なのか」

と言いたかった。専門学校の先生から筆記試験は上位だが、実習は出来なかったと言われた。

外に出るのが苦手だから死ぬような思いで野外撮影に出かけたと思う。息子の将来を思うと不安と怖れと不憫が入り交じった複雑な気持ちになった。でも一応は印刷会社に面接に行ったが当然結果は駄目だった。

通学するストレスが無くなったので息子は少し落ち着いて来た。近くに「障害のある人もない人も共に働く作業所」があった。皆で50人位の職場だったので、息子は自分から面接に行って採用してもらった。

こんな積極的な時代もあったのかと思うと懐かしい。最初の頃は時間給だったので勝手に職場を離れて近くの山に行っては又職場に戻る。そんな事も許されていた。昼食は皆で食べられないので、家に食べに帰った。私と顔が合ったらゴキブリのようにサッと部屋にこもるので毎日弁当を作って私も仕事に行った。

息子の我がままを許して貰える職場だったからこそ働けたと思う。本人も少しずつ慣れてきて皆と食事が出来るようになった。お昼に帰らなくなった事はなんと幸せな事かと職場の皆さんに感謝の毎日だった。

そして月給制にしてもらって給料もぐんと上がった。それが本人には負担になり私の怖れていたことが起こった。知的障害の人と平気で喧嘩するし、その他諸々の事で注意を受けるようになった。それがストレスになり、わざわざタクシーで帰ったり、自転車で帰る時は大きい声で家の団地の窓に向かって叫んだ。息子が帰る時にいつまた問題行動を起こすかと思うと、私は家に落ち着けなくなって出たり入ったりした。

息子の対応疲れに限界が

その頃1991年湾岸戦争が起こった。毎日ミサイルが飛んできて平和な家庭をぶち壊す心痛む映像が連日放映された。私はこれを見ながら崩壊している我が家に解決の道はこのミサイルしかないと思った。ミサイルがこの家に打ち込まれたらすべて終わるのにと一家自滅の夢を描く毎日だった。

家の中ではふすまを破るし、足をバタバタさせて階下の住人にわざとのように迷惑をかけていた。食事は自分の部屋に持ち込んで、食べ終わった食器を鉄筋住宅だったからその壁に投げつけて割る、始めの頃は1枚だけだったのが、段々持ち運んだ食器はほとんど割るようになった。こんな時はなるべく言葉をかけた方がいいと思って部屋の外から

「お早う」

と言ったら、「パリッ」と皿を投げつけた。これが挨拶かよと思ったら思わず可笑しくなった。

一つの救いは外に向かって投げないので、その行動は冷静に受け入れようとし、割れる音が止むまで夫婦で神に祈ることにした。段ボールに割れた皿がどんどん溜まった。可愛い3歳の男の孫にも皿の心配をかけたことを思い出し苦笑してしまう。

私は孫を連れて買い物する時は必ず食器を買っていた。どうせ割られるのだから、なるべく安い皿をあちこち探しまわっていた。その日は食器を買わずに帰ろうと思っていた。孫の手を引いてぶらぶら歩いていると孫が私の手を振り払って食器売り場に走っていき、

「おばあちゃん、ここに皿があるよ」

と得意げに教えてくれた。孫はおばあちゃんが何の為にこの皿を使うのか知っていないと思うと切なくて孫を抱いて泣いた。

でも天の助けか近所で比較的大きいバザーが催された。当時出品も多く食器類も山ほど出された。その中に形の悪い失敗作が一枚10円で売っていた。私がそれを手にすると売る側の人が10円の山積みの中からなるべく形のいい物をすすめてくれた。私は思わず本音が出た。

「いいですよ、割れさえしたら」

売る人のキョトンとした顔が今も忘れられない。私は思いきり皿を買って食器棚は10円の皿で一杯になった。その上に10円の予備の皿も充分に用意した。

でもそれだけ揃えたのに息子はそれから皿は一枚も割ってくれなかった。漫才だったら「この山積みの食器どないすんねん」とつっこみたいところだった。「皿を割りたい人いませんか」と探し歩くにもいかず、ぼつぼつと全部捨てた。

しかし、私は一つの教訓を学んだ。空腹な人に少しづつ食事を与えても満腹感は味わえない。どかっと大盛りにして「さぁ召し上がれ」と充分に食べてもらったら、満腹感に満たされる。それと同じように「どうや、気が済むまで割ってみぃ」と皿を並べた時に息子の乾いた心が潤ったかと思う。でも息子が何を思っているのか理解に苦しむむことが多い。

私が住んでいた大阪のとある市では二つの大型スーパーが移転や閉鎖で取り壊された。息子は今までそこを利用していたわけではないのに異常な執着心をもって店仕舞の数日間は魚や豆腐を買ってきた。次の年だったか今度はダイエーが閉鎖した。これも閉鎖する最後の日まで食料品ばかり買ってきた。この未練がましい性格は理解できない。いよいよ壊す工事が始まったのに、その辺りをうろうろしていたので怒られたと帰ってきた。後で、私は

「どうしてそこまでするのか」

と聞いたら

「今まであった物がなくなるのは寂しい」

と言った。

息子と会話が出来るように

1995年1月阪神淡路大震災が起こった。

私の家は震度5の揺れだったが、飛び上がるような揺れは初めての経験だった。同時に食器が凄い音をたてて落ちた。当然割れてしまった。でもこの時私は(これは息子が割っているのではない)という思いがとっさに出てほっとした。

社会ではじき出された息子を抱えて普通の顔をして暮らしている私は常に孤独だった。でもこの恐怖は私一人だけが受けているのではない。みなと同じように自然の破壊力の前に我々は何の抵抗も出来ず身を任せているのだと思ったら息子の問題は些細なことのように思われた。

揺れは長く続いたが、主人が

「お母さん大丈夫か」

と何度も呼びかけてくれた。私はこんな時こそ「お母さん」ではなく「息子よ大丈夫か」とどうして言えないのかと思うと腹が立って、夫の呼びかけに返事しなかった。

そしたらどこから発しているか分からないような音が耳に入った。

「大丈夫や、そっちは」

と言っているしわがれた声は父親の声だった。そしたらあの凛とした声は息子だったのか。父親の若い頃の声に似ていたのであろう。とにかく五年間息子の声は聞いてないので私が聞き間違えたのだ。私は五年ぶりに聞いた「お母さん大丈夫か」を何度も反復して布団の中で泣いた。それにしても父親があんなに年を取った声になったのかとそれには正直情けなかった。

その後すぐテレビで神戸の被害の凄さを知った。たくさんの死者が出て、親を救い出せない家族の悲しみの映像を見て、うちは地震がきっかけで息子と会話が出来るようになったとはとても言えなかった。しかしそれ以降、息子とはふすま越しではあるが会話が出来るようになった。

息子にさらなる変化が訪れる

何の前触れもなく父親が胃がんで倒れた。

近くの病院に入院したが、息子は新聞を毎日父のもとに届けた。一か月位して手術のため、大きい病院に移った。手術後、息子はバスや電車に乗れないので面会には行けなかった。

でも娘達が誘導して息子は自転車でついて行った時、病室で奇跡が起こった。息子との会話は出来るようになったが、食べる姿は何年も見ていない。ところが、娘が病室で父親と娘達の前でぶどうを口にしたと喜んで電話してくれた。それから私と向き合ってまでとはいえないが、食べる姿が見られるようになった。

父親はそれから二年後に再発した。再発して家庭治療をしている時も、息子は問題を起こしていた。

おっかなそうな男からの呼び出しの電話があった。家の近くでまた息子はちょっとした事件を起こしていた。私は考える間もなく現場に飛んで行った。その男の停車中の車を息子が叩いて自転車で逃げようとしたので、そのこわもての男につかまって手を握られていた。主人も痛い腹部を押さえてやって来た。その男は私たち夫婦に

「どんな育て方をしてんねん」

と言って息子の手だけ離してくれた。主人は車のどこに傷をつけたのかを見てまわっていたらまたその男の機嫌を損ねた。私は謝るだけ謝ってその男の住所を聞いて別れた。

私は手ぶらでは謝りに行けないし、どうしたものか考えていたらいい男性の友達を思い出した。自営業をしている人で、その道にもくわしそうだったので翌日さっそく相談に行った。

「車に傷をつけてないのでビール券を少し持って行ったらいいで」

と言われた。「あなたも苦労するな」との言葉を背に聞きながら謝りに行った。

男はマンションの一階に住んでいた。昨日とうって変わって低姿勢でビール券を受け取ってくれた。私が思ったより安いお金で収まりほっとした。別れ際にその男は私に言った。

「あんたんところの息子は悪い奴じゃない。目がきれいだった」

何というお褒めの言葉か。有難く頂戴した。「すべての事は最善の為にある」の聖書の一節を思い出した。息子は手を捕まえられた事は初めての経験だったので少しは勉強になったと思う。

亡くなる父と息子の最後の絆

いよいよ主人の痛みも強くなり、近くの市民病院に三度目の入院をした。それは誰が見ても余命何日か分かるような状態だった。息子は入院したその日にやって来た。

「ごめんねごめんね」

と泣き崩れて体をさすった。こんな父と子のからみは私も想像してなかった。信じられない状況に私は茫然とした。今までの父に対する全ての思いをぶつけていた。かすかに残っている父のぬくもりに甘え、また罪悪感から出た行動かと思った。

兄も駆けつけてくれてその場にいたが、私達は幼子のような素直な息子の気持ちを黙って見守るしかなかった。息子は毎日病院に来てほとんど手を付けていない病院食を父親の前で食べていた。主人の姉が見舞いに来た時、主人は

「姉さん、息子も変わったやろ」

と本当にうれしそうに言った。

いよいよあと何日かという時、息子はインスタントカメラを買って来た。これはうれしかった。父親をかこんで家族写真を撮ってくれたが、写真専門学校に行って唯一役に立ったのはこれだけである。でも、父親と並んで移っている息子の目はどの写真を見ても涙でうるんでいた。

父親は意識がなくなりかけてきたが息子の呼びかけの声のみ反応した。息子は父親が亡くなる直前、雨の中を夜11時頃ハーハー言いながら自転車でびしょびしょになってやって来た。

「お父さんに水を飲ませるのを忘れたから」

と言ってくれたが、唇を少し湿らす程度だった。その一時間後に父親は亡くなった。

私は葬式の心配よりもダイエーが閉鎖した時の息子の未練心が気になった。でも一度に親戚が沢山来てくれたので、心配するような事はなかった。納棺しても最後まで父親の顔を息子は触っていた。夫との別れ際、私が泣いたのはその時だけだった。息子が憐れだった。一年分の涙を流すように泣く息子を見て姉が

「あの子は大丈夫やろか」

と心配してくれたが無事に夫を見送ることが出来た。

葬式が終わって夫の友人がお悔やみに二人来てくださった。初対面の方々だったが、ちょうどその時、息子が帰って来てさっと自分の部屋にとじこもるかと思ったら、きちっと座って初対面の小父さんに挨拶してくれた。今までにない事である。とても嬉しかった。

亡くなってから一週間位して神妙な顔で

「お父さんを殺したのは僕かもしれない」

と言うので私が

「そう思うの」

と言ったら

「僕は高三の始めから変わった。風呂のガラスを手で割った時からお父さんに心配かけたからな」

と10年前の心の闇を初めて語った。それも束の間で今度は身体に影響が出始めた。それでも納骨してからは毎日のようにお墓参りに自転車で行っていた。ある時、花屋で息子が墓参り用の花を買っているのを見た時、父の死をまだ引きずっていると不安は感じていた。

息子がアスペルガーだと分かった時

心臓が苦しいと言い出した。市民病院に行きたいと言うので、私は神経だと止めた。でも死にそうだと受診に行った。待合室で待っていると中から先生が出て来て「ハーさん」と呼ばれたので非常にびっくりしたそうである。小学校時代の友達のM君だった。息子は「ハーさん」と呼ばれていた時代の事を思い出し珍しく嬉しそうに話してくれた。他の患者は中から受付の人が名前を呼ばれるのに僕だけ特別扱いされた事、今までにない経験だったと思う。

心臓は心配ないと言われたが、本人があまりにも心配するのでM先生に心臓専門の病院を紹介してもらって、そこでも大丈夫と言われて一件落着した。

しかし、それから頭痛が始まった。MRAで異常なしと言われているのに写真を5枚買ってきて、医者でもないのに毎日眺めていた。一か月したらまたMRAをとって写真代6000円を払ってまたもらってきたので、私は病院に訳をいって以後MRAはとらないようにお願いした。

それから頭痛も治まったので、気分直しに連休を利用して旅行に行った。息子と行くのは初めてだったけれど、米沢の教会に行くのが目的で、不安だったが3泊を計画した。市内観光してホテルに着いてほっとしていると、フロントより

「今すぐフロントまで来てくれ」

と電話があった。息子は風呂に入っているし何だろうと思って行くと、息子がパンツをはいたまま入浴していると注意を受けた。米沢の教会から紹介してもらったホテルだったので、心の病の人には理解があったので助かった。パンツ事件以外は大きい問題もなく、3泊して無事帰った。

これに味をしめて今度は8月に広島で2泊を予定した。一番暑い時期だったので観光もそこそこでホテルに着いた。夜はホテルの食事を楽しみにしていたが、息子は部屋にとじこもり、どんなに食事を誘っても無理だった。仕方なくカップラーメンを二人で食べて寝た。

翌日原爆ドームに行ったがドームの中を走り回り、私は本人の気持ちを静めるのがやっとで、そそくさとホテルを解約して帰った。

息子の行動は暑さだけのせいではない。今までの問題行動を思うと帰ったらすぐ病院に連れて行こうと思った。帰宅したらすぐ総合病院で有名な心療内科に連れて行った。電車の中は本人も覚悟を決めていたのか思ったより静かだった。

やっと病院についたら心療内科の前が小児科で、集団で泣く声に息子は耐えられるか心配だった。やはり中に入った途端パニック状態になって外に飛び出した。私はここまで来て逃がすものかと後を追い続けた。

やっと受診してもらえたが、わずか20分の間も聴診器を触ったり、手を洗ったりして落ち着かなかった。私がほとんど症状を説明した。先生の診断はこれらの行為は自分を落ち着かせるための行為なので、薬はパニックの時だけ飲ませるようにと頓服を出された。パニック状態の時には薬を飲ませるゆとりはないのにと言いたがったがそのまま帰った。

今度は近くの個人病院に行った。軽いうつ病と言われたと帰って来た。私はそんな簡単な病気ではない、きっと息子が自分の病状を先生にはっきりと伝えてないと思ったので、今度は私もついて行った。そして家庭での様子と職場で私が聞いた息子の行動を聞いてもらった。何度か通院しているうちに先生は

「おそらくアスペルガーでしょう。こう診断する医者はまだ少ない」

と言われた。

「脳の障害が1/3位あると言われている」

と聞いて私は自分の育て方が悪くてこうなったと思っていたので、少しほっとした。「人間関係が苦手で認知障害もあるので、他人に誤解されやすい。結果一人でいるのを好む」と先生の言われる言葉は皆当てはまった。その頃職場も厳しくなり息子には勤まらなくなった。休み休みでも8年間働かせてもらったのは有難かった。

アスペルガーの息子はいつも加害者?

その後は息子と二人だけの息の詰まるような生活だった。息子は父親の事を思ってか、死んだら魂は何処にいくのか悩んでいる頃だったので若い男性の牧師に月2回で2年間来てもらった。

初めの頃は讃美歌も一緒に歌い、先生の話も真面目に聞いていた。が、後半は先生に気の無いような態度を取った。丁度先生が転勤されたので、来られなくなり、又二人だけの生活が始まった。息子の睡眠が浅くなったので、心配していた。

その頃5階の住人の娘が、当時流行していた高い下駄のような靴を履いて自宅の5階から早朝3時に雷が落ちたような轟音をたてて駆け下りて来た。息子は何事かと思って踊り場まで降りて行った。その娘は迎えに来た白い車に男性と一緒に乗って去って行った。これは団地に住んだ経験のある人は分かるが階段を下る音は下へ下へ響いてくる。

私も息子と一緒に娘が男の車に乗り込んでいる様子を本当に人騒がせだなと思って見ていた。その頃息子は、仕事には真面目に行けなかったので、職場の人に余り信用されなかった。

その日、朝1番に職場から電話があった。5階の母親が

「朝7時娘が出かける時あなたの息子が追っかけて来た。市役所と警察に電話するので職場からも注意してくれ」

との内容の電話だった。私は、これは面白くなったぞ、どの場面で母親に恥をかかせてやろうかと思った。国立大学卒業の母親と中学を卒業して不良している娘、この母子にどんなに泣かされた事か。今迄謝ってばかりだったが、今日は違う。私は職場の人に

「そのお母さんに警察でも何処でも行って下さい。私は現場にいたから、娘は嘘を言っている、恥をかくのはお母さんですよ。」

と胸を張って言った。息子は何時も加害者扱いばかりだったが、今日のように一方的加害者扱いされた時もあったろうにと思うと息子をもっと信用しようと思った。その娘一家は間もなく引っ越しした。

環境の変化に弱いアスペルガーの息子

息子は外部とのつながりがなく唯一の心療内科さえ行かないので、薬は私が貰いに行った。そんな時アメリカで8年間カウンセリングの勉強をして来た男性との出逢いがあった。私は「わらをも掴む」思いで来て貰う事にした。

月5回の訪問を1年3カ月続けた。経済的には大変だった。先生は行動療法と言われボーリング、映画、近くの温泉、又阿蘇の1泊旅行をされた。家では将棋で向かい合っていたが、息子は何をしても、何処にいても笑顔で帰った事はなかった。私はこれでいいのかと思ったがカウンセラーに任せるより他なかった。

大分で脱サラをした人が椎茸栽培をしていると聞いたので、先生に話すと、

「彼には田舎の環境が向いているかもしれない。」

と言われ私も納得した。息子も渋々ではあるが、見学を承知した。夜行バスの切符も予約した。当日先生に来て貰っているのに、息子は出たまま帰ってこない。行く先は多分警察か教会だったので、まず警察に電話したら

「大分にいきたくない。」

と言って来たので、

「お母さんの言う事聞きや」

と言って帰したと言われた。じゃあ教会に違いないと思って電話したら

「いや来ていませんよ。」

との返事だった。探しようもなく大分行きはとにかく諦めた。私もこれ以上カウンセラーに来て貰っても息子は変わらないと思った。息子は今の家に居ても居場所がなかったのだろう。息子が苛つく度に

「あんた親やろ、30年も同じ場所に住まわせて、親なら違う場所を探せ」

と30過ぎの息子が言う台詞ではないし、私も聞き流していた。

カウンセラーを勉強している時Sさんが

「I市に家を建てたので、とてもいい所だから皆さん遊びに来てください。」

と集会の場で呼びかけて下さった。私は今まで北海道、福山の2か所は見に行ったが、とても住む気にはなれなかった。でも鹿児嶋と聞いて九州生まれの私はどうしても行ってみたくて、Sさんにお願いして2006年12月30日にカウンセラーと息子と私の三人でI市に行った。Sさんはまる一日中案内して下さった。こんないい場所に観光ではなく本当に住めたらどんなにいいだろうと思って帰った。

私はどうしてもI市の広大な土地や人間が少ない場所を諦める事が出来ずSさんにお願いして2月に家の契約をして5月の連休に引っ越しして来た。こんな環境の良い所に住んだら息子は喜ぶかと思ったら、大阪の事が忘れられなくて2年間は

「何でこんなところに連れて来たんや」

と親子喧嘩はよくした。

アスペルガーの息子を持つ母の成長

現在は引き籠っているがデイケアKさんからヘルパーさん2人が家事支援をお願いしている。親子だけでは絶対に笑わないが、ヘルパーさんに来ていただくようになって初めは緊張していたが、最近黄金の笑みが見られるようになって、私の顔も緩んでくる。

息子も人との関係を持てないと思っているようだが、私が余にも強引に人との関係作りを進めたので、自分の巣の中に身を潜めるようになったと思う。私は自分の価値感で息子はこうあるべきといろいろな「べき」を刷り込んできた。息子は成長とともにこの「べき」から抜け出さなくなり、心病む原因の一つになったと思う。私は息子に

「今大阪に帰って一番会いたい人は誰?」

と聞いたら、

「K牧師」

と答えた。私はびっくりした。

「牧師はそんな長い付き合いではないのにどうして?」

と聞いたが、答えはなかった。私の想像だが大分に行きたくないと言った息子の気持ちを尊重して最後までかくまって下さったK牧師が忘れらなかったのだろう。私は今頃になって息子の存在をないがしろにした罪悪感に打ちのめされた。

「3年前にI市に来た理由を書いてみたら」

と娘に言われた。

「書く。書く。そんなの簡単や。」

と思ってノートに向かった。でも、思い出す事はすべて息子に対する怒りと苦しみ、悲しみで一行も書けなかった。精神科の先生から3年過ぎた今書く事を勧められた。

3年前のわたしの記憶にある息子の事件や生活行動は何ら変わっていないが、それを受ける側の自分が変わったのだ。今を支えて貰っている医療関係、息子を支援して下さる人、又障害者家族会の皆さん方のお陰で息子の全てを受け入れるゆとりが持てた。息子はまだ巣の中にいるが息子なりの方法で巣立つ日を信じよう。

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