【イスラム教の五行】喜捨(ザカート)とは?
イスラム教徒が、喜捨(ザカート)を行っていると聞いたことはありませんか?この喜捨は、イスラム教徒にとって大切な五行の一つです。そんなザカートの意味や支払いの計算方法について、またザカートとサダカの違いについてなどをご紹介しています。それでは、見て行きましょう!
喜捨(ザカート)とは?
喜捨(ザカート)とは、富のあるムスリム(イスラム教徒の事を言う)が、貧困者に対して一定比率の金銭や現物を支払うことです。ザカートは毎年の終わりに、それぞれの人の収入資源と貯蓄の双方に課せられます。これは、ある一定額の財産を有する全てのムスリムにとっての義務です。
そして彼らは純正な宗教の徒として、彼らの宗教をアッラーのみに真摯に捧げて崇拝し、サラー(礼拝)を行い、ザカー(浄財)を施すことしか命じられてはいなかったのだ。そしてそれこそは正しい宗教なのである。
(明証章第98章5節)
本当に信仰して善行に励み、礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなす者は、主の報奨を与えられ、恐れもなく憂いもない。
(雌牛章第2章277節)
これは英知の啓典の微節(印)であり、善行に勤しむ者への導きであり、また慈悲である。礼拝の務めを守り、定めの喜捨をなし、また、来世を堅く信じる者たちへの(導きであり慈悲)である。これらの者は主の御導きの許にあり、かれらこそは成功する者である。
(ルクマーン章第31章2~5節)
このように、サラート(礼拝)は言動によって、ザカート(喜捨)は財産によって、アッラー(神)に対する崇拝行為なのです。大前提に、アッラーヘの崇拝の気持ちがあります。これなくしては、二つの行為は精神的な意味を持ちません。クルアーンでは、上のフレーズのように「サラート(礼拝)」や「ザカート(喜捨)」について数多く言及されています。サラートやサウム(断食)は身体を使った精神的な行いで、ザカートは金銭を使った実際の行いです。このように、信仰が精神性だけに終わらず、社会での行動を促すのがイスラームの特徴です。
喜捨(ザカート)は税金ではない
ムスリムはザカートによって自分の財産を清め、至高なるアッラーの恵みに感謝し、来世への投資とするために施します。ザカーはイスラーム国家から課せられる税金ではなく、ムスリムにとっての義務です。また、ザカートの支払いは各ムスリムに任せられます。ここが、税金の制度とは決定的に違います。ザカー(浄財)というアラビア語の意味の通り、その究極的な目的は豊かなムスリムの魂の浄化とされています。現世のあらゆる欲望や貪欲さなど全てを取り除いてくれるのです。
そして自らの吝嗇さから身を慎む者こそは、真に成功する者である。
(集合章59章9節)
富は巡り巡れば、アッラーからの恵みです。アッラーは宇宙の創造主であり、保持者であり、人間が持っているあらゆるものの本当の所有者です。
誰が天と地を創造したのか。また誰があなたがたのために、天から雨を降らせるのか。それでわれは、美しい果樹口をおい茂らせる。そこの樹木を成長させることは、あなたがたには出来ない。
(蟻章第27章60節)
財産を手に入れる事は、それ自体が目的ではなく手段です。アッラーの意向に沿った形で、その財産も使わなければなりません。アッラーヘの純粋な信仰のほかに、アッラーから見て最も大切なことは、親切と慈善、忍耐と他人への思いやりであると述べられています。
順境においてもまた逆境にあっても、(主の贈物を施しに)使う者、怒りを押えて人びとを寛容する者、本当にアッラーは 、善い行ないをなす者を愛でられる。
(イムラーン家章第3章134節)
アッラーは人間に中庸であること、寛容と博愛の精神を持つことを勧めており、同時に傲慢であったり、欲求や欲望を追求することを控えるよう求めています。なので、サラート(礼拝)は 心のおごりを清め、サウム(斎戒)は 肉体的欲望を制御し、ザカートは財産へのどん欲を克服するためでもあるのです。
ザカートに対する心構えや効果
ザカートを与える際に注意しないといけないのが、ザカートを与えた相手に何かしてやったというような考え方をしてはいけないという事です。むしろ、自分のザカートを受け取る相手がいることに感謝し、常にこの行いはアッラーに対して向けられなければなりません。
貧しい者と裕福な者の間には、双方の意図が純粋で誠実でなくてはなりません。ザカートを施すことは、その人の財産に対するどん欲な気持ちを洗い清め、貧しい人に対する慈悲の心を育てます。貧困者の心も、富裕者に対する憎悪や嫉妬などの感情を浄化し、親愛の情を生みます。
天と地の凡ての鍵は、かれに属する。かれは、御心に適う者に恵みを広げ、またひき締められる。本当にかれは凡てのことを知り尽される。
(相談章 第42章12節)
かれこそはあなたがたを地上の(かれの)代理者となされ、またある者を外よりも位階を高められる御方である。それは与えたものによって、あなたがたを試みられるためである。
(家畜章第6章165節)
イスラームはザカーの支払いを拒む者に、非常に厳しい警告を与えています。
アッラーの恩恵によって与えられたものを出すのを嫌う者に、自分のためにそれが有利だと思わせてはならない。いや、それはかれらのために有害である。かれらの出すのを嫌ったそのものが、復活の日には、かれらの首にまつわるであろう。天と地の遺産は、アッラーに属する。アッラーはあなたがたの行うことを熟知される。
(イムラーン家章第3章180節)
イスラームでは、来世についても説かれており、来世の運命は現世での富や地位ではなく、その人のアッラーへの帰依の心や美しい品性、アッラーから授けられたものをいかに使うかにかかっています。イスラームの経済原則は、クルアーンに記されているとおり、富を正しく、そしてバランスよく分配することにあります。
それはあなたがたの中の、ただ富裕な者の間にもっぱらわたらせないためである。
(集合章 第59章7節)
このようにイスラームでは、富の死蔵と無制限な蓄積を禁じていますが、富の強制的な平等分配も認めてはいません。むしろイスラームは中庸を勧めています。イスラームの教えに従えば、生活の手段や収入は合法的で正しいやり方で行われ、それによって得た利益は社会に正しく分配するようになるのです。
ザカートの支払い義務や受給資格
ザカートの支払いが義務なのは、成人の男女ムスリム(イスラム教徒)です。ザカートが義務付けられる条件には以下のようなものがあります。
最低限の財産を所有していること:つまりその財産が、イスラーム法によって定められたある一定の額や量に達していなければなりません。
その財産を一年間通して所有すること:もしこの期間内にその財産が所有下から外れた場合、ザカーはかかりません。またアッラーは、ザカーを受給する資格のある者たちについても明確にしています。
ザカーは貧者と困窮者、ザカー(の徴収)に携わる者、(それによって)心に親愛が生まれそうな者、奴隷の解放、債務に苦しむ者、アッラーの道にある者、そして旅人に与えられる。(それは)アッラーからの義務である。アッラーは全てをご存知で、かつ英知溢れるお方。
(悔悟章第9章60節)
以下、ザカートを受ける資格があるのは次のような人々です。
- 貧困者:自分と家族を支えるだけの充分な財産を持たない者
- 羅災者:災害のために財産を失ってしまった者
- ザカートを集めて管理する者:この仕事にたずさわる人の賃金はザカート基金から支払われます。ある学者の見解では、イスラーム国家の国税庁や公共団体の職員は、これに含まれます。
- イスラームヘの改宗者:イスラームに改宗したために財産を失った者は、当然救済され、きちんとした生活に立ち直るように助けられるべきです。
- 自由を東縛されている者:ムスリムの人質や戦争捕虜を釈放する身代金の支払いが含まれます。
- 債務者:合法的な必要経費がかさんでできた債務の返済が出来ずに困っている者。しかし、大げさな結婚式や、その他自分の見栄や浪費によってできた債務の返済には当てはまりません。
- 旅行者:イスラームの布教、学問の修得、商売などの正当な理由で自分の住まいを離れた地で困っている者は、この部類に入ります。ザカートは、この種の救済活動を行っている福祉団体に対しても支払われます。
- 至高なるアッラーの道に奉仕する者:これはもっぱらイスラームの布教活動を行なう人や、イスラームの知識を探求する学者や学生、それから社会のために有益な組織を作り改善する人、例えば病院、孤児院、教育研究所、図書館、モスク、イスラームの奉仕団体、あるいは知識の普及団体などの団体や職員を指します。
ザカートを受ける資格のない人たちは、次のような人達です。
- 非ムスリム
- 預言者ムハンマドの直系の子孫
- ザカート支払い者の祖父母、両親、配偶者、子供、孫
- ザカート徴収人以外の給料としての支払い
- 裕福な親のいる子供
- 故人の借金の返済のため
- 葬儀費用のため
- モスクの購入や建築のため
一定の規準額に達した財産で連続一年間所有下にあったものは、その年にその額の2.5%を支払わなくてはなりません。このザカートにより、イスラーム社会での貧困の根絶や窃盗、殺人や他人の名誉の侵害など、貧困に伴う様々な危険を防止する目的があります。これはまた、ムスリムの間での相互扶助や同胞愛の精神を育む効果もあります。
二サーブやザカートの計算方法
二サーブというのは、ザカートが義務になる最低余剰財産のラインのことで、これ未満の財産しか持っていない人にはザカートは義務ではありません。つまり収入がいくら多くても、必要経費や生活費が高くてお金が残らない場合、ザカートは義務にはなりません。
二サーブの計算方法は、金87、 4.8グラムの時価か、銀612、 36グラムの時価どちらか低い方をとります。イスラーム暦は太陰暦なので、一年は通常私たちが用いる西暦より短いので注意が必要です。ザカートを払う人は自分で任意に決算日を決め、そこから一年さかのぼって計算しますが、多くの人はラマダーン月を決算日にしています。
ザカートの支払いが義務でない人は、財産が二サーブに満たない人、正気を失っている人、未成年です。
ムスリムの財産のうち、ザカートの義務が発生するのは以下のような財産です。以下の財産を二サーブ以上1年間所有していた人は、その財産に対しザカートを支払わなければなりません。
- 現金
- 金および金製品
- 銀および銀製品
- 在庫商品
- 家畜
- 農作物(収穫毎)
ザカートの義務がないものは、以下となります。
- 家庭用品あるいは個人の物品(例えば家、衣服、食器、家具、自動車、パソコン、電話機、本など)
- 商売目的以外の物品(例えば商用車、事務機器、借りている事務所)
ザカートの計算は『イスラーム アキーダとイバーダ』を参考に書いていますが、それぞれの計算についてはムスリムの学者やモスクに相談した方が良さそうです。
|
財産 | 最低限 | 率 |
---|---|---|---|
1 | 農産物 | 収穫毎1568g以上 | 人為的水利の場合:5%
雨水の利用の場合:10% |
2 | 金銀および金銀装飾品 | 金88gまたは銀617g | 価格の2.5% |
3 | 現金 | 銀617g | 2.5% |
4 | 商品 | 銀617g | 2.5% |
5 | 鉱業 | 最低限なし | 価格の20% |
6 | 水、水牛 | 30頭 | 30頭につき 1才のもの1頭
40頭につき2才のもの1頭 |
7 | 羊、山羊 | 40頭 | 初めの40頭に対して1頭
120頭に対して2頭 300頭に対して3頭 100頭毎に1頭 |
8 | ラクダ | 5頭 | 24頭まで、羊か山羊1頭
25~35、1才もの雌ラクダ1頭 36~45、2才もの雌ラクダ1頭 46~60、3才もの雌ラクダ1頭 61~75、4才もの雌ラクダ1頭 76~90、2才もの雌ラクダ2頭 91~120、3才もの雌ラクダ2頭 121頭以上、40頭毎に2才もの雌ラクダ1頭または50頭毎に3才もの雌ラクダ1頭 |
どのようにザカートを支払うか
ザカートを支払うときには、ニーヤ(意志)が必要です。もしニーヤなしにザカートに相当するお金を払ったり施した後で、あれはザカートだったことにしようと考えた場合、そのザカートは無効です。もしザカートを支払った後で、ザカートを払うべきではない相手に施してしまったと気がついた場合、そのザカートは有効です。政府へ支払った税金はザカートには含まれませんが、政府がザカートとして徴収している場合はかまいません。
ザカートを支払うときは、施された相手にそれがザカートであることを告げる必要はありません。ザカートの提供者はこの務めを実行することによって、おごり高ぶったり売名したりしてはいけませんが、もし自分がザカートを支払ったことが他人を励まし、善行への競争心をあおるような健康的なものであれば、名前を公表することも許されます。
受給者に、自分のもらったものがザカートであることを告げる必要はありません。ザカートを受ける資格のある人が遠慮してザカートは受けたくないと言う場合には、その出所を特に言わないで与えてもかまいません。しかし、提供者はそれをザカートと意識して支払います。
ザカートは前に述べたような個人や団体に直接に渡されます。提供者は、その相手が本当にザカートを受け取る資格があるかどうかを、出来るだけ明確に判断しなくてはなりません。イスラーム政府がある場合には、ザカートは公的機関を通して税金と同じように集められ、その分配は政府の特別部門の仕事です。しかし非イスラーム国でのザカートの支払いは、それぞれのムスリムが自分の責任で支払う義務があります。
日本でザカートを支払う場合、個人が自分で貧しい人などを探したり、他のムスリムから紹介してもらったり、あるいは自分の信頼するイスラーム団体がザカートの分配を行っている場合、その団体に任せるという方法があります。
ザカートとサダカの違いとは?
ザカートは義務であり、サダカは自発的なものです。ザカートはサラート(礼拝)と同じく、信仰に基づいた義務です。一方、サダカはその他のあらゆる慈善行為をさします。
あなたがたは愛するものを(施しに)使わない限り、信仰を全うし得ないであろう。あなたがたが(施しに)使うどんなものでも、アッラーは必ず御存知である。
(イムラーン家章第3章92節)
さらに何を慈善の為に使うかについて、
またかれらは何を施すべきかをあなたに問うであろう。その時は 「何でも余分のものを」と言ってやるがいい。
(雌牛章第2章219節)
とクルアーンでは、述べられています。そして施し方については、それを受け取る人の人格が傷つかないように気を配り、匿名で施したり、自分の行為を見せびらかしたり高慢になったりしないように注意するべきです。
親切な言葉と寛容とは、侮辱を伴う施しものに優る。アッラーは富有にして慈悲深くあられる。
信仰する者よ、あなた方は人々に見せびらかすため、持物を施すように、負担侮辱を感じさせて、自分の施しを無益にしてはならない。
(雌牛章第2章263-264節)
施しをする相手は、まず自分の家族、扶養者からはじめて、親族、孤児、貧しい人、困っている人、未亡人、債務者、旅行者、至高なるアッラーの道の布教者、そして最後に、救助を必要とする一般人に対するように拡大してゆくものです。
かれらは、如何に施すべきか、あなたに問うであろう。言ってやるがいい。「あなたがたが施してよいのは両親のため、近親、孤児、貧者と旅路にある者のためである。本当にアッラーはあなたがたの善行を、何でも深く知っておられる。
(雌牛章第2章215節)
より広い見地からして、慈善の意義は援助を必要としている者に対して与える金や物だけに限らないことが強調されています。
(あなたがたの良い施しは)アッラーの道のために、心をいためながらも、大地を開歩出来ない困窮者のため(のものである)。かれらは控え目であるから、知らない者は金持であると考える。あなたがたはその様子から察しなければならない。かれらはしつこく人びとに請わないのである。あなたがたがよいものを施せば、アッラーは必ずそれを熱知されておられる。
(雌牛章第2章273節)
それは、他人を助けるためにする行為や言葉のすべてを含んでいます。例えば時間、労力、利害関係、同情心、援助の気持ち、親切な言葉なども含まれます。他人が必要としていることによく気を配り、病人を見舞い、葬儀に参列し、近親者に死なれた者を慰めること、また、笑顔で人に接すること、これらすべてが慈善の行為なのです。
参照 : 『イスラーム アキーダとイバーダ』 / 『イスラームのメッセージ』(アブドゥッラフマーン・アッ=シーハ著)
いかがでしたでしょうか?私はザカートの思い出として、ムスリムの社長に300万円をパレスチナに寄付したと自慢された事があります。ザカートやサダカの本質で突き詰めると、この社長のザカートは正しくないのかもしれませんね。
人は何か与えた時に、人間はどうしても驕り高ぶってしまうものですが、そんな気持ちで喜捨をするのではなく、純粋で誠実な気持ちと共に、アッラーへの信仰心で行わなければなりません。と言う私も、まだまだ未熟なムスリマです。今後も、五行を実践して行けるように、日々練習していければと思います。この記事が、あなたのイスラームへの知識になりますように。
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