シリア内戦の真実!シリア戦争へ発展した背景の原因

アラブの春から始まったシリア紛争。そこから、シリア内線が勃発し、遂には諸外国を含む「代理戦争」にまで発展しています。現在進行形で、このシリア戦争は悲劇を生み出しているのです。この記事は、シリア内線をまとめた記事となります。アサド大統領就任前からシリア戦争までを時系列で追い、客観的な視点からその原因を分析して行きたいと思います。

21世紀に起こった最も悲惨な紛争

戦争が2011年に始まって以来、国連によれば、推定40万人のシリア人が殺されている――――。

2012年には、戦闘が首都ダマスカスと第2都市アレッポに達しました。2013年6月までに、国連は紛争で9万人が死亡したと述べています。活動家と国連によれば、2015年8月までにその数字は25万人に増加しました。

全ての戦争犯罪を犯した当事者達は、食糧、水、医療サービスへのアクセスを遮断するなどして、今でも民間人を苦しめています。国連安全保障理事会は、すべての政党に対し、人口密集地域における無差別な武器使用を終了するよう要求しましたが、民間人は何千人も死亡し続けています。反政府武装勢力に政府の航空機が落とした砲弾によって多くが殺されました。そこに、さらに加わったISのテロ組織―――。

シリア内線が勃発した原因の真実

(出典元:Why is there a war in Syria?

シリアのアサド大統領とは?

アサド大統領を、シリア内線における悪の当事者として見る人も多いかもしれません。アサド氏は、どういう人物なのでしょうか?バッシャール・アル=アサド大統領は、父ハーフィズ・アル=アサド前大統領の息子です。父の任期は、1970年から2000年までです。父親は元々、貧しい村出身で、シリアでも少数民族のアラウィー派に属していました。そこで、父ハーフィズ・アル=アサドは、16歳という若さで社会主義思想を持ったバアス党に入党するなどして、積極的な政治活動に取り組んでいたのです。この父が大統領に就任して以後、アサドの独裁政権がスタートしたとされています。なかでも、父は特にシリア・ムスリム同胞団の勢力を抑圧していました。

父ハーフィズ・アル=アサドの次男

そんな父の次男バッシャール・アル=アサド氏は、ダマスカス大学の医学部を卒業し軍の眼科医として働きました。その後、さらに専門的に勉強するためにイギリスのロンドンへと旅立ったのです。しかし、長男のバジル氏が交通事故で死亡し、次男であったアサド氏はイギリスから呼び戻されるのです。彼はすぐにダマスカス北部のホムスにあるシリア軍士官学校に入隊しました。父親が若手アサドの指導を準備するために、1999年1月に軍の大佐に昇進しました。また、 議会は大統領の資格取得年齢を40歳から34歳に下げ、息子の引き継ぎを許可しました。実は、アサド氏は近代化とインターネットの提唱者として言われる程にシリアのインターネット規制には開放的な姿勢を見せていました。彼はまた、国内の腐敗防止運転を担当していたと伝えられています。

経済立て直しと政権改革

2000年6月10日に父親が死亡した後、アサド大統領の大統領選へのキャリアを積みアサド体制を整え、2000年7月の国民投票で、彼は大統領として投票の97%を獲得しました。

就任演説でアサド氏は、経済の近代化、腐敗との戦い、民主化を含む幅広い改革を約束しました。何百人もの政治犯を釈放したり、新聞社の出版を緩和したり。民主的改革を強く望む知識人集団は、公的な政治会議を開いたり、声明を発表することさえ許されていたのです。

アサド大統領は、シリア戦争以前、真剣にシリア経済の立て直しを図っていたようです。側近の邪魔は少なからずあったようですが、石油の輸送、補助金の削減、シリアへの資本主義の導入に力を入れていました。

国際メディアとのインタビューで、アサド大統領はシリアの最優先事項として「経済」を呼びかけいます。実際の改革は財政の安定の後に見出される可能性がある、と彼は述べています。最も重要なことは、ますますグローバル化する貿易と国際観光の世界にシリアを捉えることでした。

ですが、2001年初め頃から会合が閉鎖され始めたり、主要野党が逮捕されたり、報道の自由が規制されたりと前のように元に戻り始めたのです。残りの10年間では、多くの治安当局が逮捕状のない人々を短期的に拘束したり、イスラム教徒やクルド人の活動家は、よく長期間の刑期を言い渡されていました。不公平な裁判、戒厳令の法律、有名な残虐な治安部隊の支配を利用した父親と同じやり方だったのです。

そんなアサド政権の下で、経済面ではますます成功している都市エリート層の支援をして行きます。彼らのために、アサドは民間銀行、5つ星のリゾート、そして贅沢なレストランのまったく新しいシリアを構築していったのです。アサドの新自由主義政策の下で、事業主の新しい勢力が形成され始めました。こういった家族は、政権の資本主義から利益を得て、しばしば主要都市に住み、アサドに近い家族に近付き、社会的地位を築いていきました。当初アサド氏が唱えていた経済の自由化は、エリート階層とその同盟国に利益をもたらす不平等政策となっていったのです。

アサドは現代化されたシリアのイメージを作り、失敗した改革に対する責任を避けていたのです。その一方で、貧困層はインフレの上昇と2006年の3年間の長期的な干ばつに苦しんでいました。これは現代のシリアにも、影響を与えた最悪のものでした。開発と銀行業が成長しても、2009年までに農業で働く8万人の人々は生活を失ってしまったのです。

多くの分析者達は、アサド氏の掲げた改革は、彼の父親に従っていた側近たちによって禁止されていたのだと見ています。かれの家族や親戚も同様に、反対意見を抑える役割を果たしたと言われています。2007年、アサド大統領は別の国民投票で97%の票を獲得し、さらに7年間任期を延長しました。

強硬外交政策

外交政策では、アサド氏はイスラエルに対する父親の強硬な政策を続けました。彼は占領された土地が「完全に」返還され、イスラエルに反対する武装グループの支持を続けない限り、平和はないと繰り返し述べたのです。2003年のイラク戦争の際、シリアはイラク侵攻に反対したので、アメリカの怒りを買いましたが、他の諸地域では人気がありました。

シリアは、2005年2月にレバノンのラフィク・ハリリ元首相の暗殺を受けて、米国と緊張関係にありました。レバノンを支配していたアサド大統領と彼の側近、シリアの治安部隊が直ちに疑われました。彼らの否定にもかかわらず、殺害に対する国際的な怒りは、シリア軍をレバノンから4月に撤退させ、29年間の軍事的滞在を終了させたのです。

シリア内戦はいつから起こったのか?

シリア紛争が起こる前。ウォールストリート・ジャーナルとのインタビューで、シリアのバッシャール・アル=アサド大統領は近隣諸国の反乱の量が増えたことを認めましたが、「シリアは安定している」と言って、シリアは例外であると否定しました。

「なぜ?私たちは国民の信念と密接に結びついているからさ」

紛争が始まる以前から、多くのシリア人は2000年にアサド大統領に対して不満を抱いていました。失業率の高さ、腐敗政治、政治的な自由の欠如などの国家の抑圧を訴えたのです。その不満を抱えたまま起こったのが、今回の一連の悲劇でした。シリア紛争・内戦、そして戦争に至るまでを、時系列で追って行きましょう。

2011年:アラブの春に似た民主化運動

2011年に、チュニジアとエジプト、リビアで起こったアラブの春。独裁政権に対する反発であり、アラブに訪れた民主化運動の動きでした。その流れの中で、3月にシリアの15人の少年がアラブの春を支援する落書きを学校の壁に書きました。最初は、若者らしい軽い気持ちだったのでしょう。そんな彼らが、拘束され拷問されました。その後に、シリアでも民主化運動が激しくなります。

また、若干13歳にして残酷な拷問の後に殺害されたという少年もいます。治安部隊に捉えられ、拷問された後に残虐な遺体となって両親の下に送り返されています。あまりにも無残な息子の遺体(上半身以外は、無残である)をYoutubeでアップし、多くのシリア人の反発デモのきっかけになりました。

この遺体についての拷問の有無は、当時少年の遺体解剖の担当者は、「拷問されたという痕跡は見当たらない」と証言しています。中東で有名なメディア紙、アルジャジーラによると、その証言はどうやら拷問したとされる政府の治安部隊によって収集された証言であると述べています。記者や人権団体によると、拷問を受けた痕跡は明白でした。

アサド大統領は、この少年の父親に会い、実は謝罪と温かい言葉を投げかけています。この残酷な被害を真摯に受け止めたのですが、悲惨な被害はこの先にも止む事はありませんでした。

バシャール・アサド大統領が率いるシリア政府は、数百人のデモ隊を殺害します。さらに多くの人々を投獄して抗議に応じたのです。2011年7月、脱獄した軍人たちで結成された反政府勢力である「自由シリア軍」が誕生します。その時に、シリアは内戦に巻き込まれて行ったのです。

アサド大統領は最初の演説で、継続的な抗議行動に応えて、州の従業員は直ちに給与を引き上げるなどの改革の提案をしました。2011年4月には、アサド大統領が内閣を解散し、治安部隊が拘禁し拷問していた緊急法を、1963年以来正式に解除したのです。

しかし数日後、抗議者に対する弾圧が強化されました。翌月、兵士たちは、「武装犯罪集団」と戦うために、治安の良くない町や都市に送られました。 5月中旬までに、死者数は1,000人に達します。治安部隊とアサド大統領の努力も虚しく、この暴動はほぼ全国で続きました。

アメリカやEUは、シリアに対して石油や石油製品の輸入を2011年の8月から9月にかけて禁止します。10月4日にロシアと中国は、シリアにおけるアルカイダの反対勢力に対する緊急の停止を求める決議を、国連安全保障理事会において拒否しました。

11月には、アラブ諸国やトルコから金融制裁の措置が決められます。12月19日。最終的ににシリアは、政府軍と抗議者の間の暴力を終わらせることを目的としたアラブ連盟の提案に署名するのです。

2012年:シリア紛争と砲撃

アサド大統領は、反政府デモ隊の弾圧に対して残忍なものにならないようにし、それ以上に「狂人的」な人に対して焦点を当てていました。しかし、2012年1月に、彼は「鉄拳」で「外国からの支援を受けたテロリズム」と呼んでいるものを鎮圧することを公的な場所で約束します。アラブ連盟は暴動が続く中、シリアでの任務を中断します。

翌月、ロシアと中国が反対票を投じた為に、国連安全保障理事会でシリアの反政府デモ参加者に対する数カ月間の弾圧を終了するよう圧力をかけた決議案は採択されませんでした。ですが、国連総会はアラブ連盟のアサド大統領が辞任することを支持する決意を固める決議案を可決しました。投票は支持者137人、反対者12人、棄権者17人。

その後、アサド氏はバアス党にシリアの「国家と社会のリーダー」としての独特な地位を与える事を掲載した新憲法について、国民投票を開催することを推し進めました。また、新たな政党が形成される事も許可しました。政府は、この憲章が有権者の約90%が承認したと主張しましたが、野党はそれを偽装であると非難しています。

シリア政府は、紛争の停止についての国連の呼びかけに応じる姿勢を見せていました。ですが、シリア側はこの頃から「外部からの攻撃が無い限り、化学兵器は使用されない」と化学兵器の存在をちらつかせます。

「私はシリアで作られた。シリアに住んで死ぬ必要がある」

アサド大統領は、2012年11月にロシアにそう伝えています。年末までに死者数が6万人を超えたとき、大統領は国連特使ラフダール・ブラヒミが提案した平和への第一歩を受け入れるよう求められました。しかし、アサド大統領はこの呼びかけを無視し、「アッラーの敵と西洋の人形」と非難した反政府勢力との交渉を否定しました。

2013年:シリア内線と化学兵器の使用

政府軍が領土を回復し、大規模な攻撃を開始したため、紛争の勢いは徐々にアサド大統領に傾き始めました。シリア政府はまた、レバノンのシーア派イスラム主義運動であるヒズボラの支援を受けており、戦闘員は2013年以降重要な戦場支援を行っています。ただし、重武器は拒否されます。なぜなら、アルカイダに属するジハード主義者の関心に懸念を持つ西洋と湾岸の同盟国が懸念したからです。

2013年1月6日、アサド大統領は辞任せず、シリアの将来についての彼のビジョンには、「新たな憲法とテロリストと呼ばれる反逆者支援の終結が含まれる」と発表しました。因みに、野党はアサド政権との協力を拒否しています。

4月25日、チャック・ヘーゲル米国防長官は、化学兵器のサリンがシリアで小規模に使用されているという証拠があると発表しました。6月13日にオバマ前大統領は、内戦におけるアサド政権による化学兵器の使用は、米国の軍事的対応を引き起こす「レッド・ライン」を横切るだろうと述べました。アメリカは反アサドを繰り返し主張しましたが、紛争自体に深く関わる事には躊躇していたと見られる発言として有名です。それには、いくつかの見解があります。

まず、全オバマ大統領の輝かしい功績の一つとして、仲の悪いイランとの核合意があります。そんな交渉が背景にある中、イランが元々シリアとの結び付きがある事を知っていたオバマさんは、イランとの関係も考慮し、シリアへ攻め入る事を躊躇したという声があります。

二つ目に、この「レッド・ライン」の声明を出す以前に、ロシアのプーチン大統領がオバマ前大統領に対して、米国が「爆破」しないという条件であれば、彼の味方アサドに化学兵器の使用を降伏させるという提案をして来たのです。その後、非公式にホワイトハウスの関係者の間で話し合われました。

ついに、オバマ前大統領は「攻撃」しない選択をしました。保守派には逃げ腰外交と批判されていますが、この事前の米ロの会談は、とても可能性があると思います。なぜなら、オバマ氏の「レッド・ライン」発言以降、妙にシリア側の化学兵器放棄がスムーズなんです。しかし、そんなオバマ前大統領の努力も、今ではトランプ大統領によって覆されようとしています。トランプ大統領は当時のオバマ大統領に対してTwitterで、「シリアに攻撃してはいけない」と主張していたにも関わらず、今ではオバマの政策を逃げ腰外交と非難しています。

8月の初めに、アサド大統領はダマスカスで勝利することを約束しました。その後、国連とアメリカはアサド政府が8月21日に一般市民への攻撃で、化学兵器を使用したというシリアの活動家の主張を直ちに調査するよう求めています。シリアの反体制派活動家グループによると、人々はダマスカスでの攻撃によって殺され、その多くは女性と子供でした。また、医療慈善団体「国境なき医師団」は、ダマスカス近郊の3つの病院が「神経毒性徴候」に苦しんでいる3000人以上の患者を治療したことを発表しました。

8月30日にジョン・ケリー米国国務長官は、シリアでの化学兵器攻撃で少なくとも426人の子供を含む1,429人が死亡したことを米国諜報機関が発見したと述べています。それを受けてオバマ大統領は、議会に対してシリアに対する軍事行動を認可するよう求める演説を行います。

米国とフランスの西側諸国は、この攻撃は政府軍によってのみ行われた可能性があると主張しましたが、シリア政府は反政府勢力を非難しました。アサド大統領は、彼らの主張を支持するような "明確な証拠はない"と主張しています。

また、アメリカの軍事行動について、シリアとその同盟国から報復があるとアメリカに警告しました。最終的に、それは起きませんでしたけどね。

9月9日にシリアは、ついに化学兵器の管理を放棄するロシアの提案に同意します。9月14日に、米国とロシアはシリアで化学兵器を廃絶する計画に合意しました。

因みに、国連は8月21日の事件を調査した化学兵器検査官からの報告を発表します。査察官は、サリンが使用されていることを「明確で確かな証拠」があると述べます。9月27日に、国連安全保障理事会はシリアに化学兵器の廃止を要求する決議案を可決します。アサド大統領は、決議を守ると約束し、シリアの外相は、シリアは内戦ではなく「テロとの戦い」に従事していると述べています。シリアはそこから、化学兵器や製造施設の破壊を開始し、完了したと発表します。

2014年:ヌスラ戦線とアメリカの空爆

1月20日に、国連がイランまたはイランへの驚いた招請を取り消しない限り、シリアはジュネーブII協議に参加しないことを発表します。それを受けて、国連は後にイランの招請を廃止します。2月15日に、スイスのジュネーブで第2回の和平交渉の話し合いの結果、シリアの内戦終結はほとんど進展していないと結論付けられました。2月23日に国連安全保障理事会は、全会一致で、シリアの人道援助へのアクセスを強化する決議案を可決します。

その後、国際的な注目がアサドからシリアとイラクで大幅な領土拡大をしていたイスラム過激派に、大きくシフトしていきました。同時に、アサド氏の支持者は、異種の反政府勢力に対して成功を収めました。2014年5月には、かつては革命の拠点となっていたホムス市の反乱軍占領地域の統治権を回復しました。

翌月、アサド氏は第3期の任期を務め、政府管理区域で投票の88.7%を獲得しました。アサド家の一員以外の誰もが就任を許可されたのは初めてでしたが、多くの人が選挙を孤児として却下したのです。

武装した反乱は創設以来大きく進化しました。いわゆるイスラム国家は混乱を生かし、2014年6月に「カリフ制」の創設を宣言したシリアとイラクの大規模な実権を支配しました。その多くの外国人戦闘員は、シリアの「戦争中の戦争」に関与しており、政府やクルド軍だけでなく、アルカイダ関連のヌスラ戦線からの反逆者やライバルのジハード主義者達と戦っています。

アメリカとアサド氏と同盟国であるロシアの合意に基づき、アサド大統領は、6月に国際査察官がシリアの化学兵器を完全に破壊する許可に合意しました。翌年に撤廃されているはずなのですが、化学兵器禁止機構(OPCW)は紛争中の有毒化学物質の使用を引き続き記録しています。調査官は、塩素が2014年4月から7月にかけて、反逆武装地帯への致命的な攻撃で「系統的かつ繰り返し」使用されていることを発見しました。ISは、硫黄マスタードを含む自家製の化学兵器を使用していると非難されています。 OPCWは、このブリスター剤が、2015年8月に北部のマレアでの攻撃で使用され、赤ちゃんを殺したと語りました。9月、米国が率いる国際連合は、2014年以降シリアのラッカ市内で空爆を開始し、イスラム国を「劣化させ、最終的に破壊する」のに努めます。

2015年:ロシアの空爆

2015年の春、政府は、東部のイスラム国だけでなく、イドリブ州の首都を含む、南北の新しく形成された反政府連合に一連の敗北を喫しました。しかし、後に数百回の戦いがあり、勝敗の激しい長期戦争の浮き沈みの中で彼らを退けます。2ヵ月後のテレビ放映演説で、アサド大統領は勢力が慢性的な人力問題を抱え、反政府勢力はサウジ、カタール、トルコの支援者の支持を増やしていたと認めました。

アサド大統領の不安定な立場と過激派の台頭がさらに懸念される中、ロシアは1年後の2015年9月にシリアで「テロリスト(ISIL)」を標的にした空爆を開始しましたが、野党活動家たちは、それが主に西側支持の反政府勢力と民間人を殺したと言います。ロシアはまた、アサドの防御を強化するために軍事顧問を配置しています。翌月、戦後初の外国旅行で、アサド大統領はプーチン大統領とモスクワで会談し、ロシアの軍事介入に対する謝意を表明しました。

10月、米国は軍事費に500万ドルを費やしたが、60名の戦闘員しか訓練していないことが判明した後、シリアの反政府勢力を訓練するプログラムを廃止しました。その代わりに、アメリカは、50人未満の特別作戦部隊を配備し、シリア北部のクルド人が管理する領土にその部隊を派遣しました。米軍は、地元のクルドとアラブ軍が物流でISISと戦うのを支援し、彼らを強化するつもりです。

シリア内線はなぜ起きたのか?

シリア紛争の主な登場人物を本当にざっくりと分けると、次のとおりです。

  • アサド大統領の公式シリア軍(ロシアからの軍事支援を受けている)
  • いわゆるイスラム国家(IS)
  • シリアの他の反政府勢力:これらは、アルカーイダによって支持されているいくつかのグループや、西側諸国によって支持されている他のグループ

シリアにおいて、さらに内戦を激化させたのは、海外からの支援や介入があった事も理由として挙げられます。理論的には、ロシアはISと戦うためにいます。 しかし、実際には、他の反アサド反政府勢力も攻撃しており、その中には西側も含まれています。一方、スンニ派の反対勢力は、トルコ、サウジアラビア、カタール、ヨルダン、米国、英国、フランスなどです。

シーア派政権イランは、軍事顧問と兵器の補助金を与え、石油輸送のラインを提供するために、年間数十億ドルを費やしていると考えられています。シリアに何百人もの戦闘兵を配備したことも広く報告されています。

アサド大統領はイランの最も近いアラブ同盟国であり、シリアはレバノンのシーア派イスラム運動へのイラン兵器輸送の主要な通過点であり、政府軍を支援するために数千人の戦闘機を派遣しました。

ロシアがシリアを支援する4つの理由

ロシアがシリアを支援するのには、大きな4つの理由があるとされています。内戦を早く終わらせたい為に、シリア支援をしている訳では、どうやらなさそうなのです。

ロシア海軍基地の維持

ソ連が1970年代にシリアに影響を与え、援助と武器を与えた冷戦時代まで、少なくとも物語は遡ります。1990年代のソ連の崩壊後、シリアでの影響も縮小しました。ですが、ソビエト時代からのタルトスの地中海海軍基地など、シリアで大きな経済的および軍事的利益をもたらし、ロシアはそれを維持する事を決定しています。

2000年、プーチンはロシアの大統領となり、アサドはシリアの大統領となりました。お互い密接な関係はありませんでしたが、2000年代半ばには、プーチン大統領はロシア軍の拡大を始めました。シリアとのロシア関係は、以前の冷戦関係のために強化され始めたのです。

軍事マーケットのロシア営業

シリアでのロシアからの支援は、アラブの春が2011年に始まったときに劇的に増加しました。リビアは、ムアマル・カダフィ大統領を倒しました。これはロシアにとって、少し不都合な事でもありました。ロシアはカダフィ大統領と長期的な関係を保ち、数億ドル相当の兵器をリビアに販売していたからです。

その結果、プーチン大統領は同地域の同盟国を探すようになりました。シリア紛争は、ロシアの最新鋭のSu-35戦闘機から、新型船に搭載された巡航ミサイルまで、ロシアの最もハイテクな兵器は性能抜群である事を、「潜在的な顧客」に示す絶好の場となりました。 ロシアのシリア戦争への影響を注意深く見ている中国やインドのような国々への販売は、今や大幅な上昇を見せています。そういう軍事的な理由で、今後のシリア情勢においてロシアの見解は無視できないでしょう。

ISを締め出したい背景

また、特にIS打倒に積極的な理由は他にもあります。ロシアはかなりの数のムスリム(いラム教徒)人口を抱える国です。ISISの最高軍司令官の何人かがチェチェン起源のロシア人であるため、シリアでのイスラム国の勝利はロシアへの侵攻を脅かすかもしれません。それに対して、エジプトのシナイ半島でのロシア旅客機の墜落は、IS側のアサド政権を支援するロシアに対する報復です。

経済危機を紛らわす戦争

ウクライナに対する石油価格の低さや欧米の制裁により、ロシアの経済は危機に陥りました。 2015年に3.7%縮小し、国際通貨基金(IMF)の計算によると世界で最も悪い10ヵ国の新興市場の内の1ヵ国になりました。ロシアのルーブルの価値はドルに対して過去最高を記録しています。これは、数百万のロシア人を貧困に陥れました。

プーチン大統領の国内支持率は依然として高水準を維持していますが、この経済不況に代わる「必然的な」気の紛れがロシア市民にとって必要と考えるのです。シリア戦争は、ロシアの犠牲者が少ない限り、国家の誇りを守る為に支援を続けて行くでしょう。

※この記事は、筆者が随時内容を更新して行く記事となっております。


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